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スープの森〜動物と会話するオリビアと元傭兵アーサーの物語〜 【書籍発売中・コミカライズ】  作者: 守雨
第三章

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86 言葉に出して話し合う

「ルーカス、おはよう」

「あい」

「ルーカス、ごはんよ」

「あーい」


 ルーカスはオリビアに懐いていた。

 最初の数日は母親を恋しがって夜泣きしたが、一週間も過ぎるころにはアーサーにも慣れ、ロブやダルにも慣れてきた。

 眺めるだけならヤギ一家のことも好きらしい。


「ちょうどリリが生まれてくれていたのは助かったわ」

「そうだな。ルーカスはヤギミルクが好きなようだ。な? ルーカス」

「あい」


 泣いているときでもヤギミルクを飲ませると泣き止む。柔らかく煮たスープにパンを浸したものも好んで食べる。

 近所の奥さんたちは、「朝の十時に来てくれれば十分」と言っても早い時間に来てくれる。


「見慣れた旦那の顔を見ているより、ルーカスと遊んでいるほうが楽しいからね」

「この時期の子供は一日一日成長して変わってしまうのよ。我が子のときは余裕がなくて、育つ様子を楽しめなかったからさ、ルーカスの成長を楽しみたいの」

幼子おさなごと一緒にいると、若い栄養をおすそ分けされるから、こちらも元気になるんだよ」


 お世辞でも社交辞令でもないことは、その心から流れ出てくる優しい感情でわかった。

 今日はルーカスを見てくれる順番の奥さんが「ルーカスを自分の家に連れて行っていいか」と言う。


「用事があるのでしたら、無理しないでください。私がルーカスを見ますから」

「用事ってほどでもないのよ。旦那の母親の具合があまり良くないのさ。でもね、寝込んでるってほどじゃないから、ルーカスがいてくれたら私もお義母さんも気が楽なのよ」

「そういうものですか……。わかりました。でも、ルーカスが泣くようでしたら、いつでも連れて来てくださいね」

「はいよ」


 オリビアは(どうやってルーカスを運ぶつもりだろう)と五十代の農家の奥さんを見ていた。

 奥さんは肩掛けカバンから布を輪に縫い合わせたものを取り出し、輪に頭と右肩を通してからルーカスをヒョイと抱き上げて輪の中に入れた。

 ルーカスは奥さんと向かい合うようにして輪にお尻を入れて座り、そのまま奥さんと一緒に馬上の人となった。

 奥さんの動きは無駄がなく、子育てのベテランであることを感じさせる。


「子育てしたのは三十年も昔なのに、身体は覚えてるもんだね」

 

 奥さんは笑ってそう言い、馬を動かした。

 ルーカスは自分がオリビアから離れていることに気づいて「ふえええ」と泣き出した。心配して見ているオリビアに、奥さんは「大丈夫。一時間は泣かないものだよ」と顔だけ振り返って去ってしまった。


「大丈夫かしら」


 せっかくルーカスを預けたというのに落ち着かず、オリビアはソワソワした気持ちのまま店を開けた。今日のスープは鴨肉を叩いて小麦粉をつなぎにして丸めた肉団子のスープだ。一緒に煮込むのは葉玉ねぎと干し野菜、森で摘んできた香りの良い香草。

 その日はじっくり鉄板で焼いたソーセージに辛子風味の青菜を刻んで添えたもの。スープとソーセージがこってりしているから、パンはバターで焼かずに、パリッと網焼きしただけ。


「落ち着かない……」


 たった一週間ですっかり母親の気分になっていることに、自分で驚く。

 十一時を過ぎると次々と客が入る。忙しく働いているとルーカスのことを心配しなくて済むのがありがたかった。


 ララが来る前は五年間、一人で店を切り盛りしていた。ララがいたのは七か月間なのに、すっかりララに助けられることに慣れている自分がいた。


「これからは元のように働かなきゃね」


 そうつぶやきながら忙しく働いた。

 ルーカス親子がどうして荷物も持たずに街道から森に入り込んでいたのか、乗っていた馬車はどこから来てどこへ行ったのか。わからないことばかりだ。

 ただ、本気で親子を探そうとしている人がいるなら、街道沿いのこの店に聞き込みに来るだろう。一週間たっても捜索人が来ないというのは、ルーカス親子は捨てられたのかもしれないと思う。


 珍しくスノーが話しかけてきた。


『どうしたの?』

「ルーカスはどうして森にいたのかな、と思って」


 スノーは考え込むような様子だったが、尻尾を高く掲げて歩きながら『人間 子供 捨てる』とだけつぶやいて水を飲んだ。

 街猫だったスノーは、人間のことをよく見ていたのだろう。

 捨てられた子供を何人も見てきたのかもしれない。


「そうね。どうなってもいいと思って森に捨てたのかもね」


 そう考えたらルーカスが不憫でいっそう愛しくなった。祖父母もこんな気持ちで自分を育ててくれたのかと思う。その日は店と台所を小走りで往復しながら働き、午後の二時すぎにやっと店を閉めた。


「メッ!」『お乳搾って』

「メッ!」『外 行きたい』


 母ヤギのペペと父ヤギのピートに催促されて乳を搾り、ヤギ一家を裏庭に出した。薄切りしたパンにソーセージと辛子菜を挟んで、行儀が悪いのを承知で、柵にもたれながら立ったまま食べた。

 パンを食べながら、ヤギ一家を眺め、ぼんやりと考える。


「服は平民だった。母親の髪や肌は手入れが行き届かず、貴族には見えなかった。使用人が主の子供を身ごもって、追い出されることはある話よね。野垂れ死んでもいいと思ったら、人里離れた場所に捨てるかもね」


 人間は優しく、残酷だ。

 以前は残酷な面にばかり気を取られていたが、今はどちらも人間の一面だと知っている。


「いいわ。理由はどうあれ、私が育てる」

『いい人間』

『いい人間』

『大好き! 大好き!』

「あら、来ていたのね」


 気がつくとダル、スノー、ロブがオリビアを見上げていた。

 リリが躍るように跳ねながら駆け寄って来て、ダルに頭突きしてダルを跳ね飛ばした。なぜかリリはダルを見ると頭突きする。

 ダルは『小さいヤギ、いじわる!』と嫌がって逃げるが、リリのほうはダルが気に入っているようだ。

 その日、夕方になってルーカスは帰ってきた。


「ママ」


 そう言いながらルーカスは両腕を伸ばし、上半身を左右に揺らしながらオリビアに歩み寄ってきた。ママと呼ばれたのは初めてで、勘違いしているのだとわかっていても泣きそうなほど嬉しかった。


「おかえり、ルーカス」


 オリビアは低い姿勢になってルーカスを抱きしめた。

 

「今日はおかげで張りのある一日になったよ。お義母さんは痛いとか苦しいとかしか言わないのに、今日はルーカスを見ながら笑顔になった。いいものだね、子供は」

「ありがとうございました。これ」


 そう言ってスープを小鍋に入れて縄で縛ったものを渡すと、奥さんは笑顔になった。だがお金を渡そうとすると固辞された。


「やめとくれよ。いいんだよ。スープをおすそ分けしてもらっただけで十分さ。今夜はこれとパンで終わり。楽させてもらえてありがたいよ」


 奥さんは馬に乗って帰って行った。ルーカスは夕食も食べずにすぐに眠ってしまった。オリビアはルーカスを寝かせ、隣で子供服を仕分けした。


「ルーカスにとっては怒涛の一週間だったものね」


 白い額にかかる髪を指先で払いのけた。

(明日は前髪を切ってあげよう)

 濃いまつ毛の下の目が小さく動いているのを眺める。きっと今、ルーカスは夢を見ている。突然、ルーカスは眠りながら泣き顔になった。


(ごめんね、夢を覗かせてね)


 先に謝ってから、オリビアはルーカスの額に自分の額を静かにくっつけた。ルーカスを起こさぬよう、全神経を使ってルーカスに静かに触れると、ルーカスの夢が伝わってくる。

『静かに。泣いちゃダメ。ルーカス、声を出さないで』

 母親に包み込まれているのに、ルーカスは怯えていた。


 オリビアがルーカスから額を離し、上半身を起こした。二階の窓の外でなにか大きなものが動いた。「ん?」と見るとシロフクロウがイチイの木の枝にとまってこちらを見ていた。

 オリビアが見ていることに気づいているはずだが、シロフクロウは飛び立つこともなくジッとこちらを見いている。


 そのシロフクロウの記憶が流れ込んできた。

 ルーカスを抱いて走っている母親の姿だ。どうやらシロフクロウは親子を見ながら枝から枝へと移動したらしい。

 母親はルーカスを抱いて茂みの中にしゃがみ込んだ。追いかけてくる人物が遠くにいる。母親は茂みの中でルーカスを抱え込んで動かない。

 そこでシロフクロウの記憶は終わっていた。

 

「捨てられたんじゃなくて、誰かに追いかけられてたのか。だったらルーカスのことは秘密にしたほうがいい、わよね」


 いつもより早くアーサーが帰ってきた。出迎えるなりシロフクロウの話をすると、アーサーはしばらく考え込んだ。


「君のおじいさんとおばあさんが君を守ったように、俺たちがこの子を守るかい?」

「え……」


 オリビアはアーサーなら「俺たちがこの子を守ろう!」と言ってくれるものだとばかり思い込んでいた。だから、アーサーが「守るかい?」と判断を迷っているような言い方をしたことに驚いた。

「どうしてそんな言い方をするの?」

 

 アーサーはオリビアが初めて見るような表情だ。


「君はこれからもし俺たちの子供が生まれたらって、考えたかい?」

「えっ」

「九月に結婚して、八か月だ。そのうち俺と君の子供が生まれるかもしれない。何歳も離れていればまた別だろうが……ルーカスと歳の近い子供が生まれたとき、同じ気持ちでルーカスと自分の子に接することができるかい?」


 オリビアは間髪を入れずに答えた。


「できる、と思うわ」

「子供は親に逆らう時期が来るものだ。俺の場合は生きるのに必死だったから、親に逆らったことなんてなかったけれど、親に逆らいたくなる時期は、普通にあるんだよ」

「うん」

「ルーカスと自分の子が同じように憎まれ口をきいて、手に負えない時期が来たとき、君はそれでも我が子とルーカスに全く同じ気持ちで向き合えるって、言い切れるかい? 俺、この一週間ずっとそれを考えてた」

「……うん」

「君は自分の身体で我が子を育てて、命がけで子供を生むだろう。俺と君はそこが違う。我が子を産んでも差をつけずにルーカスに接することができるのかな」


 オリビアは(そんなこと産んでみなきゃわからない)と思う。でももうルーカスを手放せる気がしない。


「この子には実の親子じゃないと告げるか? それとも俺たちの子供として伝えるかい? 実の親子として育てても、近所の人たちがこうやって世話してくれている以上、いつかルーカスは誰かの口から本当のことを聞かされるだろう。悪気なく口を滑らせるのが人間だからね。そういうこと、考えた?」

「……」

「そういうことも全て夫婦で話し合って、納得して、それからルーカスをどうするか決めたほうがいいと思う。この子が可愛いから、気の毒だからと、今の感情だけで突っ走るのは感心しない。この一週間、君を見ていてそう思った」


 オリビアは「ルーカスを守りたい、愛しい」と思う気持ちの強さに心を支配されていたので、アーサーの意見がどこに着地するのか不安になった。


「アーサー、ルーカスを施設に預けるつもり?」

「そうじゃない。二人で話し合いたいんだ。君は人の心がわかるが、俺は君の心しかわからないし、君が読まれないように気をつけたら全くわからない。この先どうするか、二人で考えを言葉に出して話し合いたいんだ」


 そこまでしゃべってから、アーサーが優しい笑顔でオリビアを覗き込んだ。


「とは言え、俺もルーカスをここで育てるのには賛成なんだが」

「あぁ……よかった。ああ、もう、本当によかった。私はてっきり、ルーカスを育てるのに反対なのかと思ったわ」

「反対ではない。君がルーカスにのめり込んでいるから心配になったんだよ。俺は俺たちの子とルーカス、どちらも幸せに育てたいんだ。子供が生まれてから、さあどうする? なんて慌てる事態は避けたいんだ。俺はいつでも先の状況を考えて、準備しておきたい。そうやって生き延びてきたから」

「アーサー……」

「不幸な子供を生み出したくないんだ。子供には笑って生きてほしい。生まれてきてよかったと思いながら育ってほしい」


 オリビアの目に涙が滲んだ。


「アーサー、そうね。私、確かに感情だけで突っ走っていたわね。ルーカスが過去の自分のように感じられたし、それに……」


 オリビアは眠っているルーカスを見た。


「ルーカスのことになると、母オオカミみたいな、ルーカスを守らなきゃって、凶暴なほど強い気持ちになるの。自分でも驚くほどの強い感情なの。理性では抑えられないのよ」

「うん、俺にもそう見えた。この一週間、君はルーカスのことになると本当に子育て中の母オオカミみたいだった。だから心配になったんだ」


 アーサーがオリビアの頬にそっと大きな手を触れた。


「その強い感情は、俺たちの子供が生まれたらどう変化するのか、誰に向くのか、見ていて心配になった」

「そう言われたら最近あなたとなにをしゃべったか、全然記憶がないわ。私、我を忘れていたのね」

「ちゃんと話し合おう。なんでも言葉にして確認していこうよ。ルーカスと俺たちの子供のために」


 オリビアは頬に置かれたアーサーの手に自分の手を重ねた。


「そうするわ。ありがとう、アーサー」


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書籍『スープの森1・2巻』
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