68 ダル、お散歩の先で
もう今年も終わろうという十二月下旬。
午後の日差しの中、ダルが雪の積もった街道を歩いている。
普段はあまり家から離れないダルが、遠くまで来たのは理由がある。
『スープの森』の近くで、野ウサギとキツネの足跡を見つけた。二つの足跡をたどりながら歩いていたら、いつのまにか遠くまで来てしまったのだ。
足跡からは逃げる野ウサギと諦めずに追跡するキツネの攻防が見えるようで、街育ちのダルはワクワクしていた。
ところが途中でウサギの足跡は姿を消し、濃い血のにおいで足跡の物語は突然途切れた。
『ボク 食べられちゃう』
そこでやっと、自分もキツネに食べられてしまうかも、と気がついた。ダルが急いで来た道を引き返していると、馬車が止まって声をかけられた。
「あれえ? お前、あの時の猫じゃないか。久しぶりだなあ。お前、生きてたのか! へえ、でかくなってる。そうかそうか、お前、こんな何もない場所で生き延びていたか」
『あれ? この人間は……』
それはダルが遊んでいる間に荷馬車で去ってしまった行商人だ。
ダルは自分に食べ物をくれて、一ヶ月ほど一緒に移動していた行商人を懐かしく思い出した。
「そうかそうか、生きていたか」
「なぁぁん」『ひさしぶり』
ダルは馬車から降りてきた男の足に、すりすりと頭をこすりつける。男はダルの頭や背中を撫でてくれる。それがまた嬉しくて、ダルは男に甘えてゴツンゴツンと男のすねに体ごとこすりつけた。
「はは、よしよし、利口だな。俺を覚えていたんだな。どれ」
男はダルを抱き上げた。
「まるで飼い猫みたいに毛艶がいいじゃないか。肉付きもいい。お前、よほど狩りが上手いんだな。よし、それならうちのネズミ退治で活躍してもらおうか」
そう言って男はダルを空いている木箱に入れ、上から蓋をし、蓋の上に他の荷物を載せた。
『え? なんで? イヤだ! ボク おうち 帰る! 帰る! 帰りたい!』
「ははは。そんなに怒るな。安心しろ。うちで飼ってやるさ」
馬車が動き出し、木箱のすきまから見える景色が流れていく。
ダルは必死に『たすけて! スノー! ロブ! たすけて!』と叫ぶが、その声は遠すぎて届かず、オリビアの心にも届かない。
◇ ◇ ◇
夕方の食事の時間、オリビアは帰ってこないダルを心配していた。
若いダルは食事を忘れたことなど、今まで一度もなかった。時計を読めるのかと思うほど、正確に食事の時間には食器の前に正座している子だ。
(森に入って遊ぶにしても、野の獣を恐れて深くは入り込まない子だったのに。どうしたのかしら)
客がいる間は探しに行けず、夜の七時を過ぎて閉店してから、本格的に探すことにした。
「ララ、ダルを探しに行ってくるわ。アーサーが帰ってくる頃だから、あなたはここにいて」
「それなら私が探しに行きますよ」
「ううん。私が行きたいの。留守番をお願い」
「そうですか。わかりました。もう真っ暗ですから気をつけて」
(私ならダルの声が聞こえるもの)
オリビアは重ね着をした上から革のコートを着込んで店を出る。ランプの灯りが届く場所以外は、濃い暗闇だ。薄く積もった雪が音を吸い取るから、夜の外はとても静かだ。
「おかしい。こんな寒くて暗い中を出歩いたりしない子だもの。なにかあったんだわ。ロブ、ダルがどこに行ったか、探してほしいの」
『わかった!』
ロブは庭を嗅ぎながらグルグル回っていたが、ハッとした様子で街道に出る。そこからはまっすぐに南へと進んでいく。幸いなことに、ダルが姿を消してから、まだ雪が降っていない。
「雪が積もったらにおいが消えてしまう。早く見つけなきゃ」
小走りになってロブの後ろをついて歩く。野の小鳥にも尋ねたいが、もう小鳥は眠っている。
「ダールー! 出ておいで! ダールー! ごはんよー!」
ロブはどんどん進む。何度か止まってにおいを嗅いでいるときに、ランプを雪に近づけて気がついた。ウサギとキツネの足跡があった。そして猫の足跡も。
(まさか)
ダルと思われる猫の足跡は、ウサギとキツネの足跡の後からつけられているように見える。
「キツネが狩りに成功していたらダルは襲われないけど、ウサギを取り逃がしたところにダルがやってきたら? ウサギよりよほど簡単に狩られてしまう」
ロブは早足で進み続け、もう家から四キロほどは離れている。
(臆病な子だと思っていたのに、こんなに遠くまで出歩いていたなんて)
悪い想像をして、胃がギュッと縮む。足を止めたロブが何かを嗅ぎ当てた様子。
「ワンッ!」『血のニオイ』
「うそ、やだ、やだ」
ロブが『ここです!』と示す場所にオイルランプを近づける。そこには茶色の毛がひと束抜け落ちている。ポツリと一滴、血も滴っていた。
オリビアは最悪の場面を想像しながら、かじかむ指で毛の束を摘まみ上げる。
「これは……違う、ダルの毛じゃない。これはウサギの毛だわ」
どうやらキツネは狩りに成功したようだ。
周囲を忙しく嗅いでいたロブは「クーン」『ダルのにおい ない もうない』と悲しい顔でオリビアを見上げる。
(ウサギを捕まえたなら、そこから猫を襲うことはないはず。ならば他の獣に捕まったのだろうか。でも、他に獣の足跡は見当たらない。なんでこんな場所でにおいと足跡が途切れたんだろう)
その場所を中心に、道を外れて遠くまで捜すが、ロブの鼻もオリビアの目も心も、ダルの痕跡を見つけることができない。
「どうしよう。ダル、どこに行ったんだろう」
「おおい! オリビア!」
「アーサー! 来てくれたのね」
アーサーがアニーに乗ってやって来た。
「こんな真っ暗な中を、一人で出歩かないでくれよ。心配したよ」
「アーサー、ダルの足跡が途中で消えているの。ふっつりと消えちゃってる」
「ここでか?」
「うん。ウサギとキツネの足跡をたどっていたらしいんだけど、ここで……」
「泣くな。大丈夫だ。俺が探すから、君はもう家に帰れ。風邪をひくぞ」
「ううん。ダルになにかあったのよ。途中でにおいも足跡も消えるってことは……。うう、泣いてる場合じゃないわ。探さなきゃ」
「落ち着いて。ダルの心は聞こえないのか?」
「なにも。なにも聞こえないの」
そこからまた一時間ほど探したが、ダルの気配はない。
「いったん帰ろう。これ以上はだめだ」
「ええ……そうね」
アニーに二人乗りして帰りながら、オリビアはアーサーに不安を吐き出す。
「突然足跡もにおいも消える理由、ひとつだけ思いつくわ。タカよ。タカに持ち去られたとしたら、もう助からない。あの爪で内臓まで切り裂かれて、助からないの。私、そういう動物を見たことがあるの」
「いや、ちょっと待ってくれ。いつだったか君、ダルの生い立ちを見たって話してくれたよね。何人もの人に違う名前で呼ばれて、食べ物を貰ってたって」
「ええ。人懐こい子だから、あちこちで可愛がられていたみたい」
「それで、最後は馬車に置き去りにされたって言ってなかったか?」
「あっ!」
アーサーを振り返ったオリビアの目に、希望が宿っている。
「もしかして、馬車の人間に愛想を振りまいて、連れて行かれたってこともあるぞ」
「ある。あるわ。あの子ならある。イヤイヤ言う割に噛んだり引っかいたりしない子だし。そうだわ。馬車に乗ったのなら、においも足跡も消える!」
「そうだよ。俺はそっちだと思うが」
「そうか、そうね。ダルは私よりも馬車の人を気に入ったのかも」
「悪い方に考えるなよ。まずは家に帰って食事にしよう」
「ええ。そうね。ダルはその人が気に入ったか、冒険の旅に出たくなったのかもしれないわね」
そうならばもう、どうしようもない。
王都と他の都市をつなぐ街道は、様々な場所から馬車が来て、去っていく。馬車に乗ったのだとしたら、もう探しようがない。
そもそも、ダルが自分の意思で乗ったのだとしたら……。
しょんぼりした顔で戻ってきたオリビアに、スノーが近寄ってきた。
『ダルは?』
「見つからなかったわ。ごめんね、スノー」
『ふうん』
スノーは長いふさふさの尻尾を左右に振りながら、ゆっくりと自分のベッドに向かう。
『ここ 好きなら 帰ってくる』
「スノー」
『ここ 好きなら 帰ってくる』
スノーが繰り返す。
オリビアはララがいるのでスノーに近寄って頭を撫でるだけにしたが、確かにそうだ、と納得した。
ここが好きなら帰ってくる。もっといい場所を見つけたなら帰ってこない。『犬は飼い主に寄り添い、猫は家に執着する』と、ロブの元飼い主のアイザックが言っていた。
「そうね、スノー。猫は自由に外を歩く生き物だものね。ここが好きなら帰ってくるわよね」
(それはある程度の距離まで、の話でしょうけれど)
何百キロも離れてしまったら、猫の足ではもう帰ってくるのは無理だろう、と思う。
オリビアが椅子に座ってぼんやりしていると、普段はそれほどべたべたしないスノーが膝に乗ってきた。
『ワタシ いる 泣かないで』
スノーはそう言って、オリビアの手を優しく舐めた。





