64 薬湯
オリビアが風邪を引いた。これは珍しいことだった。
『腹七分目でよく眠る。これが健康の秘訣よ』
祖母はよくそう言って、過食と睡眠不足を戒めていた。それを忠実に守っていたオリビアは、病気で寝込んだことがほとんどなかったのだが。
「オリビア、具合はどうだい?」
「喉が痛い、かな。でも、寝ていれば治ると思う」
「雪の中を往診に行ったからな」
「あれは仕方ないわ。養鶏所のボビーさんは高齢だもの。ただの風邪だって命取りになる」
熱で顔を赤くしたオリビアが、分厚い冬の掛布団から顔だけを出してそう答える。アーサーは付き添いたがったが、「あなたに私の風邪がうつったら困るから」と言ってオリビアは断っていた。
「あなたはちゃんとフレディさんのお店に行ってくださいな」
「わかったよ。じゃあ、行ってくる。なるべく早く帰るから。大人しく寝ていてくれよ」
「ええ、そうします。行ってらっしゃい、アーサー」
布団から手だけを出して小さく振り、オリビアは再び目を閉じる。元気なふりを装っていたが、一人になったとたんに頭痛のひどさに呻いてしまう。体の節々も痛い。以前の流行り風邪に効果があったニガイモの根っこも試したが、この風邪には効き目がなかった。
「死なない程度に病気を経験するのも勉強になる、とおばあさんは言っていたけれど、確かにね。まだ若い私でもこんなにつらいんだもの。ボビーさんはどれだけ苦しかったことかしら」
養鶏場のボビーは、風邪をひいても息子の仕事を手伝い、湿った咳が出るようになってから、オリビアに往診を頼んできた。
熱も高く、咳も酷かったから、診察しながら(この年齢で体力が持つかしら)と不安になったのを覚えている。ボビーは治ったと連絡が来たが、オリビアは酷くなる一方だ。
ボビーの往診後、数日たってからそっくり同じ湿った咳が出始めた。ボビーの風邪をもらったのだ、とすぐに気がついた。
店はララが切り盛りし、常連客達は「オリビアが寝込むのは珍しい」「こじらせないといいのだが」と皆心配して帰って行った。
全く食欲が出ず、ララが頻繁に運んでくる白湯をひたすら飲み、たまに無理やりパンがゆを口にした。だが、子供用の小さなスープ皿一杯を完食できない。しくしくと腹が痛み、息も苦しい。
夜になってアーサーが帰宅したが、そのころには、オリビアの熱が上がっていて、はぁはぁと苦しそうな息をするばかり。アーサーの問いかけにもまともに返事ができなかった。
(アーサーが何かを話しかけてるから、返事をしないと)と思うが、泥に沈み込んでいくように身体が重い。眠れないのにやたら眠い。
覗き込んでいるアーサーが、心配そうに自分を見ているので、右手を伸ばしてアーサーの頬にそっと触れた。
「つめ……たい」
「俺が冷たいんじゃない。オリビアがすごい熱なんだ」
アーサーの心が無防備になって、悲しみと不安が流れ込んでくる。オリビアの右手を両手で包み、アーサーはオリビアの熱い手を自分の額に当てて、何かをつぶやいている。
風邪が治るまでは、アーサーには隣の部屋で眠ってもらうように言ってある。なのになぜアーサーは夜更けに自分の隣にいるのか、とぼうっとした頭で思う。
胸の奥でゼロゼロと音がして、呼吸が苦しくて、オリビアは横を向こうとした。
それをすぐに察したらしいアーサーが、軽々とオリビアを動かして横向きにし、背中をさすっている。そしてまた、何かを口の中で呟いている。
(なにを言っているの?)と思いながら眠りに落ちかけているオリビアの耳が、アーサーの言葉を拾う。
「父さん、母さん、リディ。助けてくれ。俺の寿命を削ってもいい。どうかオリビアを助けてくれ」
アーサーが繰り返し繰り返しつぶやいている言葉を理解して、オリビアの胸が塞がる。
家族を一人で看病していたアーサーの、少年時代の記憶は細切れだ。短い記憶の前後が入れ替わっていたりする。
アーサーが絶望しながら家族の世話をし、料理らしい料理もできずに野菜を柔らかく煮たものに塩を振って食べさせたりしている。
「だい、じょう、ぶ」
「オリビア! 気がついたのか。喉は乾いていないか? さすってほしいところはないか?」
「だい、じょう、ぶ」
自分を案じて眠ることもできず、かつての家族のように旅立ってしまうのではないかと恐れているアーサーに申し訳なくて、オリビアは両手を伸ばしてアーサーの顔を挟んだ。
「どうした? なにかしてほしいのか?」
ただただアーサーが愛しくて、オリビアは小さく頭を振ってまた目を閉じる。熱が高く、いろいろな夢を見た。
猫が見てきた話を聞いている自分。
スズメが美味しい草の実を見つけた話を聞いている自分。
馬たちが『もっと走りたい』と言い合っている声に耳を傾ける自分。
動物たちはオリビアに優しく、ときにはそっけなかった。
人間の仲間に入れず、かといって動物たちの仲間にも入れない。どこにも居場所がないと思っていた子供時代を久々に夢で見た。
夜になると、仕事から帰ってきたアーサーが、何度も自分の額に唇で触れて「治れ。治れ。絶対に治れ」と呪文を唱えるように繰り返す。
「だい、じょう、ぶ」
小さな声でそう答えるのだが、アーサーの悲しみが大きすぎて、圧倒されてしまう。
三日後、オリビアの若い身体は風邪を克服し始めた。
四日目には熱が下がり、節々の痛みも治まった。食べ物の味がわかるようになり、上半身を起こすこともできる。
五日目の午後、そろりそろりと階段を下りたオリビアは、祖母の書いた本を読んでいるララに声をかけた。
「ララ」
「オリビアさん! 起きて大丈夫なんですか?」
「多分。もう、峠は越したわ。ララ、ちょっとその本を貸してくれる?」
受け取って台所のかまどの前にイスを運んで座り、ページをめくる。
「何を探しているんですか?」
「滋養強壮の薬湯のレシピを探しているの。四十を過ぎたら飲むといいって言われてたのが、たしかどこかに……」
「滋養強壮。私も知りたいです!」
「あ、あった。これだわ。ララ、試しに私のために、この薬湯を作ってくれる?」
「お任せください!」
ララはレシピを見ながら、二階の元オリビアの部屋に入る。乾燥させた薬草が大量に収めてある薬草タンスから必要なものを選び、台所に運んできた。
「この薬草を天秤で量りながら鍋に入れていけばいいんですよね?」
「うん。種類が多くてちょっと手間だけど」
「とんでもない。このくらいなんてことありませんよ」
ロブはずっと尻尾をブンブン振りながらオリビアの膝に顎を乗せている。
スノーはひょいと膝に乗って来て『久しぶり』とゴロゴロ喉を鳴らしている。
ダルは『いない さみしい』と言いながらオリビアの足首を甘噛みしていて、ちょっと痛い。
やがて鍋がグツグツ言い始めると、三匹は『くさい』『すごく くさい』『イヤな ニオイ』と言って台所から店の暖炉の前へと避難してしまう。
「ごめんね。くさいよね」
「犬と猫は敏感ですもんね。そろそろ書いてある通り二十分煎じましたけど 飲みますか?」
「飲むわ。私が寝込むとアーサーが気の毒なくらい悲しむから」
「わかります。アーサーさん、『この世の終わり』みたいな感じでしたもん。私、コリンにもあんなふうに悲しんでもらえるかしらって思いました」
「『この世の終わり』って。そう、アーサー、そんな感じだったのね。これ、今日から毎日飲む。そして風邪をひかないように気をつけるわ」
「そうしてください」
オリビアは口で呼吸しながら一気に薬湯を飲み干した。
「うう。不味い。だけど、祖父母はこれを朝晩飲んでいたおかげで長生きしたのかも」
「では私も味見を……うっ。苦い。しかも青くさい」
「うん、上手にできているわよ。祖母が飲んでいたのもこういう味だったわ」
「オリビアさん。そういえば、不思議なことがあったんです。オリビアさんが寝込んでいる間、毎朝のように庭の雪に、鹿の足跡が残っていたんですよ」
「鹿……」
それはあの金色の鹿ではないか、と思う。だが、さすがにララにもそれは言えない。
「毎日毎日、夜中に来ていたらしくて。足跡からすると、結構大きい鹿ですよ。なんですかね」
「なにかしらね。でも、もう来ない気もするけど」
「どうしてですか?」
「なんとなく」
夕方、店に来た客たちは「このにおいはなんだい?」と言い、滋養強壮の薬湯だとララが説明すると、結構な数の人が飲みたがった。
「水筒に入れてくれよ。代金はいくらだい? おや、そんなに安いのか。じゃあ、次に来た時も買うよ」
「これ、マーガレットとジェンキンズが飲んでいたやつだろう? においに覚えがある」
「あの二人は神の庭に旅立つまで、ずっと元気だったからなあ。俺もああなりたいよ」
「明日、瓶を持ってくるからさ、明日もその薬湯を売ってくれるかい? かみさんにも飲ませたい」
酷く不味いのだとララは力説したが、中高年の客たちは「よく効く薬湯なら味は気にしない」と言い、味見をさせても「買う」と言う。
スープとおかず、そして薬湯が好まれて、『スープの森』は客足が絶えない。
その日もスープと薬湯を売り切って、少し早めに店じまいをしたオリビアは、アーサーのためにセーターを編んでいた。
「ただいま、オリビア」
「おかえりなさい。夕飯、すぐに用意するわね」
「編み物? そんな時間があったら横になってくれよ」
「大丈夫よ。もうすっかり調子はいいんだから」
「君は働きすぎだよ」
スープの鍋を温めなおしていたオリビアが振り返り、手元を覗き込んでいたアーサーの顔を両手で挟む。
「どうした?」
「私ね、祖父母が飲んでいた薬湯を、毎日飲んでいるの」
「どこか具合でも悪いのか?」
「ううん。滋養強壮の薬湯なの。あなたより長生きして、あなたを悲しませないようにしようと思って」
アーサーは自分を見上げているオリビアをぎゅっと抱きしめた。
「そうしてくれ。俺より必ず長く生きてくれ」
「ええ」
「もう、あんな心配をさせないでくれ」
「ええ、そうするわ」
「どれ、俺にもその薬湯を飲ませてくれよ」
「いいけど、食事の後のほうがいいかもよ」
「君が飲めるなら俺だって……うわっ、うわ、口の中全体に青臭さが。苦い。しかも渋い!」
「だから言ったのに。はい。蜂蜜を口に入れると少しはましになるの」
スプーンで蜂蜜を口に入れられ、もぐもぐと口を動かすアーサーは、食事を始めても「やっぱり後から飲むべきだった」と何度もぼやいた。
なぜかその不味い薬湯は人気が出て、客たちは『スープの森』に来るときには空き瓶を持ってくるようになった。
風邪からすっかり回復したオリビアが、大鍋で薬湯を煎じる。ザルで濾しながらじょうごを使って、客が持ち込んできた瓶に注ぐ。
アーサーは「病み上がりなのに仕事を増やしてる」と渋い顔をしたが、オリビアは「無理はしないから。それに、毎年乾燥させた薬草を使いきれずに処分していたけど、使い切れるのはいいことよ。夏を越したら、乾燥させていても薬効が落ちるし」と言って、毎日せっせと薬湯を作り続けた。
『スープの森の薬湯』は、常連客を中心によく売れて、オリビアは思いがけない収入を得た。
「ララ、これで何か買うといいわ」
「えっ。金貨? いいんですか?」
「いいのよ。ララも作るのを手伝ったんだし」
「ありがとうございます! これはとっておいて、いつかコリンと暮らすときに家具を買います」
「じゃあ、そうしてね。雪が解けたら、一緒に薬草を採りに行きましょう。いっぱい採ってきて、またいっぱい薬湯を作りましょうね」
「はい!」
『くさい』『イヤな におい』
スノーとダルは毎日文句を言っている。猫より鼻が利くロブは、最初から台所にいない。最近では薬湯を煎じ始めると店の隅に行ってしまう。寒い外に避難することもある。
その冬、店の常連客たちはいつになく調子がよく、風邪で命を落とす人も、長期間寝込む人もいなかった。「あの薬湯のおかげに違いない」と客たちは言い合い、「春になっても買いたい」という声が途切れない。
ヤギのピートとペペはなぜかあの薬湯のにおいが好きらしく、薬湯を煎じたあとにヤギ小屋に行くと『メッ いい におい』『メッ おいしい におい』と言いながらクンクンしてくる。
オリビアは風邪が回復してから、毎朝一番に庭を調べている。だが一度も鹿の足跡は残っていなかった。
「やっぱりあの鹿が心配して来てくれていたのかな」
(どこにも居場所がないと思い込んでいた子供時代にも、もしかしたらこうして自分を心にかけてくれる動物がいたのかも)
オリビアは初めてそこに思い至った。





