カルディア大陸編16 黎明の空
______アーガイル地区・メルド公爵の屋敷では、ガアル地区にある魔竜の洞窟へ向け、出発する準備が整えられていた。
まだ朝靄が立ち込める時間から、使用人達は公爵達達の旅支度に追われている。濃紺の闇を淡い蜜柑色の光彩が地平線から照らし、黎明の空には美しきグラデーションが広がる。
家令のポールは、まだ星々の煌めきが空に残っている頃、起床した。そして、我が主であるメルド公爵の出発時間に合わせ、使用人達に準備を進めさせた。
朝霧が晴れる頃には、旅に必要な食料や装備は馬車の荷台に乗せられ、貴族と旅の同行人達の身仕度が済んだ。
準備の慌ただしさが一段落した頃、メルド公爵とルセル卿は屋敷の広場に出てきた。彼らは厚手のコートを纏っている。朝冷えした空気に白い息が宙に舞う。
「メルド公爵、早朝から申し訳ない。そろそろ出発してもよろしいか? 」
ルセル卿は、メルド公爵に声を掛けた。前回来訪時に出発日時は決めており、それに合わせて、ルセル卿は再び昨晩公爵邸を訪ねたのだ。詫びる口調ではあるが、同時に有無を言わさない雰囲気もある。
「いえ、とんでもございません。もう準備は整っております。カールも問題ないか?」
「はい。いつでも発てます」
メルド公爵は長男であるカールに声を掛けた。強い癖毛で、目鼻立ちは公爵にそっくりだ。しかし、肌艶は若々しい。彼はまだ成人したばかりだ。
「では、出発するぞ」
ルセル卿は、部下に先導するよう指示した。数匹の馬蹄が連なり、出入り口の門を潜っていく。その中央でルセル卿は不気味な笑みをたたえている。彼の周囲には、数名の騎士と従者が連れ立ち、その後方に御者が操縦する馬車を引き連れている。
「私達も発つぞ。ポール、留守の間は頼んだぞ」
「かしこまりました」
馬上のメルド公爵は家令のポールにそう言い残すと、後に続いて屋敷の門をくぐった。
公爵は使用人を同行させず、長男カールのみを引き連れている。従者のダンは同行を申し出たが、聞き入れてもらえなかった。
ポールは、メルド公爵とルセル卿の一行が建物の角を曲がって、その姿が完全に見えなくなると、すぐに使用人を1人呼んだ。
手元に持っていた紙に筆を走らせると、すぐに使用人に紙を渡し、ゲイル達が潜む騎士団の詰所へ伝令を急ぐように指示した。
「ダン、すぐにベリンを牢から出してやれ」
ポールは、共に出発を見送っていた従者のダンに命令した。ベリンは以前サーラが屋敷をスパイするために、憑依していた見習いの男だ。スパイが発覚し、メルド公爵に投獄されていた。
「しかし、メルド様の許しがないと……」
「構わん。罪なきものを牢に入れる必要はない」
「……承知しました」
ダンは躊躇したが、ポールの決意の籠る瞳を見て大人しく従った。ベリンは勝手に憑依されていただけで、罪があるわけではない……ダンも、それは十分承知していた。
「メルド様……何故、道を踏み外された」
ポールは暁光の空を仰ぎ、悔しそうに呟いた。メルド公爵がルセル卿の手足と成り果てている事実に、彼は苦悩していた。しかし、ゲイルと情報を共有していく内に、公爵に見切りを付ける覚悟を彼は持ったのだ。
「ゲイル殿、あとは頼みますぞ」
ポールは、屋敷の外にある騎士団の詰所の方向を見つめて、悲嘆の表情で呟いた。
______ゲイルはポールからの知らせを受けると、ディーノに作戦開始を告げた。彼は屋上に駆け上がると、待機していた“風の王”シェラに話し掛けた。シェラは囲壁の天辺に立ち、その黄金の瞳で既にルセル卿の姿を捉えていた。
「ルセル卿が出発しました!先に発ちましょう」
「そのようだな。では、背に乗れ」
「はい!」
シェラは、紅鳶色の髪が逆立つ長身の男の姿から大鷲の姿に変化した。ディーノは、彼の背に乗りしがみついた。
巨大な翼を羽撃かせると、大鷲の影は橙の空へと一気に上昇した。
ゲイル達はポールからの伝令が来る前から、既に出発の準備を進めていた。昨夜、ルセル卿が訪れたという情報を受け、主だったメンバー達は、昨夜から騎士団の詰所に寝泊まりしていたのだ。その詰所は、公爵邸と同じ街区内だが少し離れた場所にある。4階建てで、遠目からなら屋敷の様子は観察できる。
「じゃあ、私達も厩舎に急ごう」
「よし、ついに来たな!」
「ふぁ~まだ眠いけど、頑張るよ」
ゲイルは、準備が終わった様子の2人に声を掛けた。ストームが気合いが入ってるのとは対照的に、サーラは目を擦って眠そうにしている。
魔竜の洞窟があるナルの森への近道は、事前に調べてあった。ルセル卿の一行を待ち構えるために、先回りしておく手筈だ。
普段は使われない、魔物が出現する森を突っ切ることになる。すでに騎士団の精鋭達を、昨夜から森付近の小屋に待機させてある。
セレネ城に向かう途中に、その森は位置している。大鷲に乗ったディーノは、一度そこに立ち寄り作戦開始を伝える。騎士団の彼らは、ディーノの指示が来ると同時に、先発隊として道中の哨戒を始める手筈となっている。
ゲイル達が、魔物に邪魔されず移動が出来るようにする為だ。事前に、ゲイル達の指揮下に入る紫の魔導師達数名と、ガアル地区の騎士団とも合流しておく必要がある。作戦には、スピードも重要なのだ。
シェラの機動力を利用し、ディーノは伝令役として各方面に作戦開始の指示を出していく役割を担っている。
ゲイル達が厩舎に着くと、副官のレヨンが話し掛けてきた。茶髪で筋骨隆々の男。ゲイルより5つ年上だが、彼の忠実な部下で信頼の置ける右腕だ。
「とうとう動きましたか?」
「ああ。レヨン、お前は指示通り、騎士団を指揮しろ。包囲は厳重に頼むぞ」
「承知いたしました!」
レヨンは頷くと、急いで騎士団の詰所へ戻っていった。彼等は時間差で少し遅れて出発し、途中でガアル地区の騎士団と合流する。
その騎士団の連合隊は、ルセル卿がナルの森へ入り次第、森の周囲を包囲する手筈となっている。
「よし、私達は一気にガアル地区まで向かうぞ」
「おーし、行くか!サーラ、急ぐけど頑張って付いてこいよ」
「うん、任せて。お馬さんも、頑張ろうね~」
ゲイルは馬に跨がると、ストーム達に声を掛けた。彼等は意気揚々と頷く。そしてサーラは鐙に足を掛けて、一気に鞍に跨ると馬の背を撫でた。
3人は朝霜が薄れた大地に、馬を走らせていく。濃紺だった空は橙に染まり、斜光によって馬影が伸びている。ガアル地区までの近道は、荒涼とした平野が続く。馬蹄が蹴りあげる地面には、土埃が舞い散っていく……。
「くそっ、速い。かなり距離を離されたな」
その紫の外衣は、風に煽られ、激しくはためいている。魔法の箒で空を切り裂くように飛び、ダマクス地区へと1人の魔導師が急行していた。
青と緑が混ざった髪色をした、エメラルドの瞳と清潭な顔立ちが印象的な細身の男……ジャスだ。
______ゲイル達が起床する、少し前の時間に時計を巻き戻す。
騎士団の詰所には、ゲイル達と共に、紫の魔導師達の1人であるジャスもいた。彼はルセル卿が動き次第、ダマスク地区にいる紫の魔導師達団長のエリックの元へ、伝令を行う役割を担っていた。
ゲイルとエリックは年齢も立場も近いため、情報をやり取りする中で、親密な関係になっていた。エリックは信頼する部下の1人をゲイルに紹介し、行動を共にさせていたのだ。
ジャスは何か胸騒ぎを感じて、目が覚めた。魔力の感知能力が高いジャスは、ルセル卿の他にもう1つ、邪悪で強烈な魔力の存在を感じていた。
ジャスが窓の外を見ると、まだ朝靄が出ていて薄暗かった。しかし、彼が公爵の屋敷を観察すると、灯りが漏れていた。彼は胸騒ぎの正体を探るべく、詳細に魔力の動きを感知する為に、目を閉じ集中を高めた。
「!?……魔力が増幅した。ん?何処かに移動し始めたな。かなり速い」
ジャスが強烈な魔力を感知してすぐに、その存在は移動を始めた。ルセル卿とは別の魔力だと、彼は確信した。それは、以前にも感じた事のある魔力だったからだ。
ジャスは慌ててゲイルの部屋に向かった。彼の部屋の扉をノックすると、すぐにゲイルは扉を開いた。
「ん……どうしたんだ。何かもう動きがあったか?」
「公爵の屋敷内で感じていた邪悪な魔力が増幅して、何処かへと移動し始めた。その魔力は、以前ダマクス地区で感知した怪しい魔導師の魔力に似ていた」
「ああ、ダマクス地区にも怪しげな魔導師が彷徨いている……という話は聞いている」
「恐らく、ダマクス地区に向かったのだろう。方角はそっちの方だ。俺は先に発つぞ」
ジャスは、確信に満ちた目をゲイルに向けた。そして、彼は早口で淡々と言葉を繋げた。要件を伝え終えると、踵を返し、屋上への階段へと早足で向かった。
「健闘を祈る。ジャス、必ず勝とう」
「ああ、勿論だ」
離れていくジャスの背中に、ゲイルは声を掛けた。彼は振り返る素振りも見せず、階段を駆け上がる。しかし、その返事の声には決意が満ちていた。
「いよいよ……戦いの始まりだな」
ゲイルが窓を開けて公爵の屋敷を見ると、黎明の空に昇る煙が煙突から出ていた。馬の鳴き声や金属が擦れる音も、僅かに聞こえてくる。彼は身仕度を簡単に済ませると、ストーム達を起こしに部屋を出た。
ジャスは、魔法の箒でダマクス地区へ向けて飛び立った。しかし、先に移動を始めていた邪悪な魔力は、既に遥か先へと進んでいる。もう殆ど感知できない程、距離を空けられた。
彼は姿勢を低くし、箒の柄を強く握りしめると、魔力の出力を高めた。
「もっと速くなれ!……嫌な予感がする」
魔法の箒は、冷たい空気を切り裂いていく。激しい気流が高音を鳴らし、紫の外套が激しく靡く。紫の魔導師は、暁光と風圧に目を眇めながらも、目的地の方へ強い眼差しを向けた。




