カンビョオーネ! 1
季節の変わり目、特に冬から春にかけての数週間。
痺れる低温から春の陽気、さらには一足飛びに夏の暑さまで――神の気まぐれにより気温は日々、目まぐるしく乱高下する。服装、布団の種類、部屋の温度、その他諸々に対して色々な選択肢が示され、環境への適応度が試される季節。
順応できれば文句を言う程度で問題ないが、順応出来なかったとなれば――。
「あうう……」
目の前に横たわる、愛らしい妹のようになってしまう。
美しい茶色の髪、翠に煌く大きな瞳――学園にファンクラブまで存在する完璧な容姿さえ、今日は少し曇って見えた。苦しそうに荒い息をつき、目線もぼんやりとどこか落ち着かない。これがRPGならステータス異常間違いなしだろう。
「……やっぱ熱あるな」
彼女――伊達雪音を、ついで体温計を見やり、兄である一護は苦笑した。
こちらもまた整った造詣を持つ青年である。パーツ単位では黒髪黒目、中肉中背と目立たないステータスでありながら、ベッド横に腰掛ける様はモデルといっても通用しそうだった。
「37.5℃。普通に風邪か」
「だ、大丈夫だよ……微熱だから……」
「起き上がろうとするんじゃない。微熱じゃなくて発熱だ。平温36℃ないだろ。お前」
「で、でも……」
「てい」
「ふにっ」
言い募ろうとする雪音を押し返す。弱々しい抵抗は、額に濡れタオルを当ててやると一瞬で大人しくなった。
「デモも行進もない。大人しく寝てろ。お兄ちゃん命令だ」
「…………あうう」
「返事は?」
「はい……」
「ん。よろしい」
髪の毛を一度撫でてやり、よっこいせと立ち上がる。
「タオル冷やしてくる。解ってると思うけど、余計なことはしないよーに」
「……はーい」
返事を見届けて廊下へ。先ほど使った濡れタオルを抱え、一護はぼんやりと今朝の出来事に思いを馳せた。
――とはいっても、特段大したことがあるわけではない。
いつも健気に起こしてくれる雪音が、今日に限っては起こしてくれなかった。
一年を通してほぼ活躍しない目覚まし時計が、珍しく役立ったわけだが――その事情を、隣のベッド(伊達兄妹は相部屋なのだ)を見た一護は瞬時に理解した。
つまりは妹の体調不良、風邪である。
そこから慌てて起床、体温計を準備したりタオルを用意したりしたわけだが――。
(どうすっかなぁ。今日)
ここで一つ、問題が発生していた。
本日は月曜日。
つまり平日であり、普通に学校があるのだ。
雪音は普通に病欠させるつもりだが、一護まで登校してしまったら看病が出来ない。数日前から出張に出かけた親父がいれば良かったのだが、今から呼び戻すのは無理だろう。
(……仕方ないか)
しかし悩んだのは一瞬だった。
携帯電話を取り出した一護は、あまりかけたことのない番号をメモリから呼び出す。
雪音と学校、天秤にかければどちらに傾くかなど言うまでもない。ただでさえ普段から世話になりっぱなしのわけで、たまには兄貴らしいことくらいしてやろう。
『はい。赤樹学園ですが』
「あ、もしもし。2年A組の伊達一護です。美濃教諭いらっしゃいますか?」
『はい。少々お待ちください』
そこから数秒。
呼び出しの最中に深呼吸していた一護は、音が途切れるのと同時に唾を飲み込んだ。
『いっちっごくーん? 朝っぱらから俺様を呼び出すたぁ、いい度胸してるじゃねぇか。なぁ?』
冷や汗が流れる。圧迫感には(鷹で)慣れているはずの一護を以てしても、鋭利な刃物のような声は充分過ぎるほどのプレッシャーを与えてきていた。
「……おはようございます」
声の主は美濃教諭――幼馴染軍団が所属する2年A組、その担任である。
生徒も教師も個性的な赤樹学園の中、抜きん出て恐れられている“暴君”だ。頭脳も一流だが、何よりもあの鷹をして“俺以上”と言わしめた戦闘能力から色々推測して欲しい。
「すいません。風邪引いたみたいなんで休ませてください」
『ほおう? 珍しいじゃねぇか』
「はい。ちょっと体調が――」
『勘違いするな。珍しいっつったのは風邪じゃねぇ。テメェが嘘ついたからだよ』
「……いや、嘘なんて」
『声の震えもなきゃ呼吸の乱れもねぇ。鼻の通りも良さそうだなぁ? 本当に風邪ならどっかしら異常が出るだろ。つくならもっとマトモな嘘つけ』
「…………」
絶句する。
過剰な演技こそしなかったものの、一護は気持ち控えめなトーンで話をしていた。こんなに早く、しかも電話程度でバレるはずがないのだが――恐るべきは“暴君”ということか。
「……いえ、勘違いですよ」
だがここで退くわけにはいかない。改めて覚悟を決めた一護は、ゆっくりと声を出す。
「体調が悪いのは本当ですから」
『あくまでその設定で行く気か?』
「何を言っているのか解りません」
『相変わらずクソ度胸だな……まぁいい。金払ってるのが生徒側である以上、来るも来ないも本来は自由だ。落ちこぼれんのも自己責任だがな』
「……ストレートですね。勿論解ってますよ」
『ククク。で、アレか。ホワイトブレスが風邪でもひいたか?』
「アンタ本当に凄いな!?」
全部バレバレじゃねぇか!?
ちなみにホワイトブレスというのはTMではない。彼限定の雪音の呼び方である。
『他のバカ共ならともかく、テメェがサボる理由なんざ幾つもねぇだろ。嘘ついてまで病欠にしてぇのは、自分の看病に兄貴を使った――なんつー風評被害からホワイトブレスを護るためってトコか?』
「………………ノーコメントでお願いします」
『ククク。時に沈黙は何よりも雄弁に語るぜ。精々気をつけな、シスコン野郎』
最後にとても聞き捨てならないことを言われたが、文句を言う前に電話が切れた。心の底まで読まれて色々気分は台無しだったが、一応は許して貰えたらしい。
「……時間食っちまったし、さっさと戻るか」
しばらくはイジられそうなネタが出来てしまったが、今は考えないようにしよう。
氷嚢と濡れタオルを用意。救急箱から漢方薬を取り出し、冷蔵庫からめぼしいものを何点かチョイスする。雪音が几帳面かつ丁寧に管理してくれているので、ごく潰しの兄貴でも準備は簡単だった。
「悪い悪い。待たせた」
「んぅ……ごめんね、お兄ちゃん……」
「全然なんでもないっての」
再びベッド横の椅子へ腰掛ける。安心させるよう撫でてやった頬は、先ほどよりも熱く感じた。段々悪化している気がする。
「ほら、漢方薬――ってあー……これ、食後か……雪音。食欲あるか?」
「……ううん、あんまり……」
「だよな。んー……聞いといてアレだけど、食ってもらうしかないか……お前の好きなモモとイチゴ持ってきたから、少し食べてくれ」
「……うん、解った」
「ほい、あーん」
「え? あ。あー……♪」
起き上がった雪音の口元にモモを運ぶ。
丸っきりひな鳥――もしくは子ども扱いだったが、何故か妹は嬉しそうだった。苦しそうなのに嬉しそうという、見方によってはなんともイケナイ表情である。
「ほれ。イチゴも。あーん」
「あ~……んむ♪」
「っと。こら、指まで食うな」
「ご、ごめんなさい……勢いが……」
「まったく……仕方のない奴だな」
まぁイチゴは粒の大きさが決まっているわけで、大粒のものを選んだ一護にも非がないわけじゃない。雪音の口はとても小さいし、もうちょっと考えてやるべきだった。
「ほい。もう一粒」
「あ~♪」
「っと。このくらい食べればいいか……ほれ。薬と水」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
「だから、こんくらい何でもないっての」
律儀な妹に苦笑する。
市販の風邪薬がどれだけ効くかは未知数だが、とりあえず一安心だろう。治らなかったら病院に連れて行けばいいし、今は様子を見るべきだ。
「さ、あとはしばらく寝てろ。昼はお粥作ってやるから」
「ふに? それってひょっとして――卵のお粥?」
「おう。そのつもりだけど、別のがいいか?」
「ううんっ! 卵がいい!」
「そ、そうか……」
凄い力説だった。
体を起こして拳を握り、至近距離で訴える妹(風邪)である。
(そういや好物って言ってたか……)
まさかここまでとは思わなかったが――というか、そもそも雪音の腕なら充分過ぎるくらい作れると思うんだが。
「まぁ卵がいいってんなら、それで作るぞ。楽しみにしとけ」
「うん♪ 楽しみにしてるね♪ えへへ……ってえ? あれ? お兄ちゃん、学校は……?」
(チッ。気づいたか)
流石に聡い。思い当たる前に寝かしつけようと思っていたのだが、しっかり気づかれた。
「うん、まぁ。いいじゃないか。細かいことだ」
「え? えっと、でも……」
「大丈夫大丈夫。問題ない。いけるいける」
「だ、だめだよお兄ちゃん……学校はちゃんと行かなきゃ……」
「……相変わらず真面目だなぁ。お前は」
「わ、私は大丈夫だから。今、お薬も飲んだし……あとは寝てれば……」
「だが断る――というか、既に手遅れだ。学校にも連絡済だからな」
「ふぇ?」
雪音の真面目さは兄としては自慢だが、体調が悪い時くらいは甘えて欲しいわけで。
自分の判断を自画自賛。
休むと告げてから登校する方が心証は悪くなるし、雪音もこれで意固地になって行かせようとは思うまい。
「サボっちゃったんだぜ☆(てへぺろ」
「か、可愛い……♪」
「そんなバカな!?」
あとは勢いで誤魔化そう――そう思ってのてへぺろの舞(・ω<)だったのだが、雪音の反応はこちらの斜め上を行っていた。
「もうお兄ちゃん……また熱上がっちゃうよぉ……」
「俺か、俺のせいなのか!?」
少なくとも、てへぺろは男がやって可愛い仕草ではないはずだが……雪音にとっては違うらしい。流石は“ブラコン”の二つ名を欲しいままにする妹である。
「……まったく。ほら、バカなこと言ってないで、さっさと寝なさい」
「…………お兄ちゃんが始めたような?」
「何か言ったか?」
「……んーん。何でもないです。えへへ」
しかし一応は、誤魔化すことには成功したらしい(呆れたのかもしれないが)。
満面の笑みで布団に寝っ転がる雪音を見て、一護もまた笑みを浮かべたのだった。




