伊達雪音の憤慨
声が聞こえてくる。人魚を彷彿とさせる、美しい旋律が。
「ふんふふ~ん♪」
その発信源は美しい少女だった。
身内の贔屓目を抜いても整った顔立ち。細く柔らかい茶色の髪に、大きくて愛らしい翡翠色の瞳。キャミソールの2枚重ねの上にエプロンを纏った美少女が、鼻歌を歌いながら料理へいそしんでいる。
(……楽しそうだな)
そんな彼女――妹である雪音を見て、一護はわずかに口元を緩ませた。
妹と同じく整った顔立ちの青年である。適度に鍛えられた体と剽悍な顔つきはモデルのようで、街を歩いていれば何人かは目を留めるだろう。
(……そういえば雪音って怒らないよな)
なんとなく髪の毛をいじりつつ、一護はふとそんなことを思った。
こういうと兄バカ以外の何者でもないが、雪音はよく出来た妹である。
アイドル並みの容姿、小柄で細身だが出るトコは出ているスタイル、進学校でも上位に入る学力、主婦顔負けの家事スキル、控えめな性格は評判がいい上に気遣いも半端じゃないし、運動神経だって悪くない。
(拗ねるのはよく見るけどなぁ)
むしろ見ない日の方が少ないくらいだ。
長所だらけの雪音だが、筆舌に尽くしがたいほどのブラコンかつ甘えん坊という欠点もある。例えばなでなでや膝枕(雪音いわく“ご褒美”)を一護が断ったりすると、すぐに拗ねてしまうのだ。
(……まぁ拗ねた姿が可愛いもんで、ついつい意地悪しちゃうんだけどな)
誰に対しての言い訳かはさておき、そんなこんなでブラコンクイーンの雪音が怒っている姿など、一護はあまり想像が出来ない。
(どうせ暇だし、試してみるか)
というわけで実験を開始したいと思います。
◆◇◆◇◆
CASE1
「雪音~」
「んぅ? なーに、お兄ちゃん?」
「それ、ぷにー」
「ふにゃ!?」
――“ほっぺた引っ張ってみよう”。
名前通りの作戦である。
料理中の雪音の背後から近づいた一護は、振り向いた雪音のほっぺたを引っ張った。
(おおう……いい手触り)
ぷにぷにのすべすべ、もち肌とはこういうのを言うのだろう。むにむにしすぎで幸せな気分になってきた。
「ひょ、ひょうかしひゃの? お兄ひゃん?」
だが、それと作戦の成否は別である。
兄の蛮行にビックリした雪音は目を見開いたが、特に怒る様子はない。頭の上へハテナマークをいっぱい並べ、伺うように一護を見るだけだ。
「あー。いや、なんでもない」
「んぅ?」
「気にするな」
これは実験失敗だな。
◆◇◆◇◆
CASE2
「雪音。今日の昼飯って何だー?」
「えへへ。雪音ちゃん特製パスタだよ♪」
「ふむ………パスタか」
「ふぇ?お兄ちゃん、ひょっとしてリクエストとかあった?」
「いや、リクエストというか………ちょっと中華が食いたいなーと」
――“THE 意地悪”。
一護の発言は無論、嘘だった。むしろ食べたいものという意味なら、熱い昨今、中華よりもパスタが勝る。しかし料理が完成寸前の雪音がメニュー変更を頼まれて、どういう反応を見せるかを観察するためだ。
己の食欲程度、制してみせよう!
「そっかぁ」
で、その実験結果といえば。
「うん、解った。それじゃ材料買って来るね。作り直さなきゃだから、お昼遅くなっちゃうけど……ごめんね、お兄ちゃん」
「え」
「中華なら何でもいい? ラーメンとかチャーハンとか、マーボー豆腐とかチンジャオロースとか、お兄ちゃんのリクエストがあれば作るけど……?」
小首を傾げる雪音は、どこからどう見ても本気で作り直そうとしていた。躊躇など一切なく、勿論怒る気配など一片たりともありはしない。
「い、いや。俺が悪かった。パスタにしよう、うん。雪音特製パスタ、楽しみだ」
「……? 変なお兄ちゃん♪」
これも失敗か。いいアイデアだと思ったんだけどなぁ。
◆◇◆◇◆
CASE3
「お兄ちゃ~ん。お掃除しちゃうからちょっとベッド空けてもらっていい?」
「んー?」
――“お邪魔虫大作戦”。
昼食(超がつくほど美味かった)を平らげてから暫し。
雪音が掃除を始めるタイミングを見極めて、一護はベッドに転がった。つまりは家事の邪魔をすることで、雪音の怒りを引き出そうという作戦である。
「………お兄ちゃん? 聞こえてる?」
「んー」
なんかダメ男になった気分だ。
いやまぁ、家事全般のほとんどを雪音がやってくれている時点で今更な気もするが――これは実験なのだから仕方ないと自己弁護。
(……もう一押ししてみるか)
心なしか、雪音の声のトーンが少しだけ落ちている。これはひょっとして、ひょっとするかもしれない。
「あの、お兄ちゃん……?」
「……まぁ雪音。お前もたまには休みなさい」
「ふぇっ!?」
ぐいっと手を引っ張り、一護は雪音をベッドへ引き倒した。もちろん怪我しないよう受け止めてはいたが、邪魔も甚だしい。
「は、はう……」
(お。ちょっと震えてるな。これはいけるか?)
ようやく実験成功――。
「……えへへ」
「はい?」
と思ったのだが。
「えへへー……お兄ーちゃん♪」
雪音は何故かえらくご機嫌で擦り寄ってきた。
当然だが怒りの様子はかけらもない。
一護の胸に顔をうずめて、幸せオーラを振りまいている。
「えーと、雪音」
「んぅ~?」
「怒ってないのか?」
「怒るって……なんで?」
「なんでって……掃除の邪魔された挙句、脈絡なしにベッドへ引っ張り込まれたんだぞ?普通は怒ると思うんだけど」
「???」
「いや、そんな疑問符たっぷりに首を傾げられても」
「びっくりはしたけど……お兄ちゃんにだっこされて、どうして怒るの?」
「……いや、なんでもない」
「?????」
えー、つまり。
これも実験失敗ってことか。
◆◇◆◇◆
そして。
(これが最終手段だ)
ついに一護は封印を解き放つ決意を固めた。
解ってはいたが、予想を超えて雪音は手強い。彼女に対抗するためには禁じ手を出すしかないと思うほどに、一護は追いつめられていた。
これで失敗したら、諦めるしかない。
「雪音~」
CASE4――。
「はーい♪ なーに、お兄ちゃん♪」
(おおう……)
さっきのが続いているのか、まぶしいほどの笑顔だ。
ちょっとだけ躊躇いそうになるが、妙な使命感に支えられて言葉を続ける。
「かむかむ」
「んに?」
「ここに」
「???」
素直に近づいてきた雪音をソファーに座らせた一護は、心の中で謝りながら手を伸ばした。
「ひゃう!?」
「こちょこちょ」
「お、おに……きゃう!?」
CASE4――“くすぐり地獄の巻!”
「ほーらほら」
「お兄ちゃ、や、ん……! ひゃん!」
雪音はくすぐりに滅法弱い。どんだけ補正がかかってんだと思うくらいに弱い。これバグだろとユーザーが投げ出すくらい弱い。
ゆえに今の状態は、彼女にとってまさに地獄……!
(さぁ怒れ! 怒るんだ雪音!)
「あはははははははは! くす、お兄ちゃ、や、くすぐったいよぉ!」
「……」
「ん、ほんとだ、め……きゃん!」
「…………ダメか」
だが、しかし。
たっぷり一分はくすぐって、一護は手を離した。これだけやってもダメだったなら、時間を延ばしても一緒だろう。
「雪音」
「は、はうぅ……な、なに? お兄ちゃん?」
一護のくすぐり攻撃は劇的な変化をもたらしている。
か細い吐息、目尻の涙、上気した頬、体をよじったせいか着衣も乱れ、とろんとした瞳が艶かしい――そりゃもう別の意味でノックアウトされそうな変化をもたらした。
「お前は何をしたら怒るんだ?」
「ふぇ?」
だが、本筋とは程遠い。
もう直接聞くしかないと判断した一護はド直球のストレートを放った。
「怒るって……誰が?」
ぱちくりと大きな瞳を瞬かせ、雪音はきょとんと小首をかしげる。
「お前が」
「誰に?」
「俺に」
「お兄ちゃんさっきもそんなこと言ってたけど……どうして私がお兄ちゃんに怒るの?」
「いや、そう冷静に訊かれると辛いんだけどな」
ぶっちゃけ、ただの暇つぶしだし。
「ほら、お前ってあんま怒んないだろ? だから何をしたら怒るのかなー、と知的探究心がだな……」
「え、えっと……?」
「深くは考えないでくれ。単なる思い付きだから」
「……うん。ごめんね、お兄ちゃん」
「謝ることじゃないっての」
「あ……えへへ♪」
変なことをした謝罪も含め、頭を撫でてやる。そんなことでも嬉しいのか、雪音は再び輝く笑顔を浮かべた。
「お兄ちゃん。私ね、今日は特に怒れないと思うよ?」
「ん? なんでだ?」
「だって、今日はお兄ちゃんがいっぱい構ってくれて嬉しかったもん♪」
「……なるほど」
実験だったとはいえ、確かに今日はかなり一緒にいた気がする。一護の思惑がどうあれ、甘えん坊の雪音にとっては嬉しい時間だったってことか。
(やれやれ。結局、徒労だったか)
まぁくだらない実験でも雪音は喜んでくれたみたいだし、よしとしよう。
「……って、うげ」
「んぅ? お兄ちゃん、どうしたの?」
「あー、いや。お前のせいじゃない。葵と約束しててな。そろそろ時間がギリギリ――って、はい?」
気づけば。
「……う~!」
思いっきり拗ねた眼差しで、何か雪音さんがこちらを見ていた。
「えーと、雪音?」
「……出かけるの?」
「あ、ああ」
「葵ちゃんと?」
「お、おう。何かあったか?」
「……ないけど。二人っきりでデート?」
「確かに二人だけどな……そんな色っぽいモンじゃないぞ?」
何しろ目的地はスポーツ用品店、品物はダンベルだ。
新作の水着も見たいとかふざけたこと抜かしてたけど、そっちは却下したし。
「お夕飯は?」
「一応食べるつもりだけどな。葵がだだこねるかもしれん」
「む~!」
リスのように頬を膨らませる妹。ぷっくりとしたほっぺたへ触りたい衝動を必死に堪えながら、一護は恐る恐る口を出す。
「……雪音さん。ひょっとして怒ってらっしゃる?」
「怒ってないもん」
「完全に怒ってるだろ……」
「怒ってないもんっ!」
ふしゃー、と威嚇するゆきねこ。
あんまり怖くはなかったが、それでも滅多にない表情に凄まじい衝撃を受けた。
怒らせてみようとは思ったものの、いざ怒ればオロオロするだけの情けない兄、伊達一護(俺)。
「いいもん、今日のお夕飯はお兄ちゃんの好きなものばっかりにするから!」
「それって怒りながら言うセリフか……?」
「そうだよ? 遅くなったら食べられないんだからねっ」
「ああ、そういう……」
食べたければ夕飯までに帰って来いってことね。
とても婉曲な表現だったが、雪音がお出かけを快く思ってないことは解った。
(あー……どうしたもんかなぁ、これ……)
CASE Ex――ウチの妹は拗ね過ぎると怒るようです。
途方に暮れる一護の頭を、そんな一文がよぎったそうな。




