第四話:動物病院は、異国である
それは予告なく訪れた。
朝という名の平和な時間帯に、突如として発動された非常事態。
キャリーケース。
あれは箱ではない。
檻だ。
段ボール要塞が思想で世界を征服する装置なら、キャリーケースは思想を無視して身体だけを運ぶ拉致装置である。柔らかい布で覆われ、通気孔という名の覗き穴が空いている。優しさの皮を被った、実力行使だ。
俺は察した。
今日は異国へ連れて行かれる日だ。
人間はやけに声が高い。
「大丈夫だよー、すぐ終わるからねー」
この言葉を信じて良かった歴史は、一度もない。
俺は抵抗した。
テーブルの下に潜り、ソファの裏へ逃げ、最後はカーテンにしがみついた。だが人間は数の暴力で迫ってくる。二本の腕、という圧倒的戦力差。
キャリーの中に入れられた瞬間、世界が狭くなった。
空気が薄くなったわけではない。尊厳が圧縮されたのだ。
揺れる。
音が変わる。
匂いが、次々と上書きされていく。
車の中は、鉄とプラスチックと人間の焦りの匂い。
移動とは、常にアイデンティティを削る行為だ。
やがて辿り着いた場所。
動物病院。
そこは異国だった。
言葉が通じない。
匂いが強すぎる。
悲鳴と、鳴き声と、消毒液の匂いが混ざり合い、空気そのものが不安でできている。
犬がいる。
あれは外交失敗国家だ。声がでかすぎる。
俺はキャリーの中で丸くなり、思考を閉ざした。
これは敗北ではない。潜伏だ。異国で生き延びるためには、存在感を消すことが最優先事項になる。
名前を呼ばれる。
「ミケちゃーん」
違う。
それは俺のコードネームではない。
診察台の上は冷たく、金属の国だった。
白衣の人間が近付いてくる。目が合う。あの目は、敵でも味方でもない。研究者の目だ。世界征服において、一番厄介なタイプである。
「ちょっとお口見せてねー」
やめろ。
そこは、最後の城門だ。
だが抵抗は虚しく、口は開かれ、耳を覗かれ、体重を量られる。数字にされるというのは、支配の第一歩だ。俺は静かに、それを記憶した。
注射器が視界に入った瞬間、俺は悟った。
神話はここにもあった。
チクリ。
痛みは一瞬で、拍子抜けするほど短かった。
だが問題は、その後だ。
世界が、少しだけ柔らかくなる。
輪郭が溶け、音が遠のき、怒りが眠気に変換されていく。
これは……化学的敗北。
気付いた時には、俺は再び家にいた。
段ボール要塞の中だ。
人間は俺を見下ろし、安心したように息を吐く。
「頑張ったね」
違う。
あれは、偵察だった。
異国の医療水準、武装(注射器)、支配構造。
すべて把握した。
世界征服とは、力ではなく情報だ。
俺は目を閉じ、眠りに落ちる。
次に目覚めた時、世界は少しだけ、俺に優しくなっているはずだ。
それはきっと、征服が進んだ証拠である。




