第三話:段ボールは、移動要塞である
午後三時というのは、文明が一番脆くなる時間帯だ。
人間は眠気と現実の境界線でふらつき、猫は覚醒する。
俺はその日、異変を察知した。
玄関に、見慣れない物体が置かれていたからだ。
段ボール。
それはただの箱ではない。
歴史を振り返れば、すべての要塞は「囲われた空間」から始まっている。石であれ、木であれ、そして紙であれ。重要なのは素材ではなく、「内」と「外」を分ける意志だ。
俺は慎重に近付いた。
鼻先を突き出し、匂いを嗅ぐ。
新品の紙と、遠くの国の空気が混ざった匂い。物流とは侵略であり、侵略とは物流である。これはつまり、世界が俺の元へ届いた証拠だ。
人間はその箱を開け、中身を取り出し、無造作に段ボールを床へ置いた。
愚かな行為だ。
空の要塞ほど、危険なものはない。
俺は一瞬で中へ入った。
段ボールの内側は、夕暮れ前の洞窟のように薄暗く、外界の音が少しだけ鈍る。完璧だ。ここは司令室であり、寝室であり、最前線でもある。
箱の壁に耳を当てる。
人間の足音。
冷蔵庫の低い唸り。
遠くで鳴る車の音。
世界はまだ、俺の存在に気付いていない。
俺は身体を丸め、箱の中で作戦を練った。
この要塞は軽量だ。つまり、移動可能。人間が持ち上げれば、俺は中に入ったまま別の土地へ輸送される。これは革命的だ。敵に運ばせて侵攻する――歴史に名を残す戦術である。
実際、人間は箱を持ち上げた。
「ミケ、邪魔だよ」
違う。
これは同盟だ。
要塞は揺れ、床が変わる感触が伝わってくる。俺は箱の底に爪を立て、重心を低く保った。これは単なる輸送ではない。進軍だ。
数秒後、要塞は静止した。
新天地である。
俺は箱から顔を出し、周囲を確認する。
そこは、さっきまで見下ろしていたリビングだった。
……ふむ。まだ征服は局地戦に留まっているようだ。
だが、成果はあった。
人間はこの箱を見て、こう言った。
「かわいい」
これ以上の勝利があるだろうか。
俺は箱の中に戻り、どっしりと座った。
もうここは俺の領土だ。人間は箱を捨てられなくなる。領土とは、奪うものではない。手放せなくさせるものだ。
段ボールの天井から、小さな穴が空を切り取っている。
そこから見える光は、まるで世界の縮図だ。
俺は目を閉じた。
この要塞は、いつか朽ちる。
だが思想は、残る。
次はもっと大きな箱が来るだろう。
洗濯機か、冷蔵庫か、もしかすると家そのものか。
世界征服とは、段階的な引っ越しに似ている。
俺は段ボールの中で、静かに喉を鳴らした。
それは勝利のファンファーレであり、昼寝の合図でもあった。




