20.監査の旅4
翌朝にマルジェの街から出発したベティ達は、基本的には順調に旅を進めていた。
キールが度々、不意打ちでベティに触れたり、ステキな贈り物をくれたりするおかげで、ベティの顔面と心拍数がとんでもない事になったりはしていたが。
旅路自体は魔獣に遭遇するようなこともなく、シェールブルク公爵領の中心までもう間もなくという位置まで来ていた。
「この調子ならば、明日のお昼頃にはシェールブルク公爵領の領都に着くね」
「無事辿り着けそうで良かったです。シェールブルク公爵領の監査は、領都のみなのですか?」
「私が行くのは領都だけだね。他の街は、他の者たちが行っているんだ」
「そうでしたか。ジュッツベルク領の時はキールさんが色々と回られてたようですが?」
やっとキールをさん付けで呼ぶことに慣れてきた。
小さく首を傾げて尋ねると、キールが穏やかに笑う。
「ジュッツベルク領は昔から行ってみたいと思っていたから、私があちこち行けるように調整したんだ。その甲斐あって、ベティと出会うことも出来たし、とても良い機会だったね」
「っ……。えぇと、その、なぜ、ジュッツベルク領に行きたいと?」
艶やかな笑みを向けられて、カッと頬が熱くなった。美しいキールの笑みは、目に毒だ。
キールから視線を反らしつつ、あまり恥ずかしくないと思う話題を向ける。
「ジュッツベルク領は昔から魔獣被害なども多くて、色々と厳しい場所だろう? それがここ10年くらいは特産品を作り出したりと、良い発展を遂げていたからね。そこに暮らす人々や、ジュッツベルク領の土地自体を見てみたいと思ったんだ」
「そうでしたか。……キールさんは、とても国のことを想っておられるのですね」
「ふふ、ベティにそう言ってもらえると嬉しいね」
柔らかな笑みが零れるキールは、心から喜んでいるようだ。
自然と、ベティにも笑みが零れていた。
森の中を通る街道を、馬車はゆったりと進んでいく。
厳しい陽射しも、周囲の木々の緑鮮やかな葉が天蓋となって、大分優しい光となって降り注ぐ。
穏やかな空気が流れ、あと少しでこの旅路が終わることが少し寂しいくらいだ。
色々と驚かされることや慣れないことも多く、大変だったけれど楽しくもあったこの旅を惜しんでいた時だった。
不意に、鋭い咆哮が響き渡る。
「っ、キールさん! 灰色ヴォルフが5体ほど、左後方から」
「灰色ヴォルフだと追いつかれるね。ベティ、いけるかい?」
「はい。お任せを」
キールが馬車のスピードを落とすと共に、ベティは御者台に隠していた剣を手に飛び降りる。
相変わらずの商人のご婦人風の恰好ではあるが、元々一応護衛という名目なのだ。長いスカートは慣れないが、動きを大きく阻害するような服ではない。
手早くスカートの裾を切り裂いて準備を整える。
灰色ヴォルフは狼型の魔獣で、大きさは一般的な狼よりは大きい。群れで連携して襲い掛かって来るのが面倒ではあるが、そう強い魔獣でもない。
ジュッツベルク領であれば、日常的に遭遇する魔獣だ。
今回は馬車を引く馬を守る必要があるのと、こちらが2人しか居ないというのが問題ではあるが、キールの剣の腕もかなりのものだ。そう心配することもないだろう。
キールも御者台から降りて馬の傍で剣を構えているのを確認し、灰色ヴォルフへと向かう。
灰色ヴォルフは囲まれると厄介なのだ。こちらから仕掛け、各個撃破していくのが一番だ。
「はぁっ! たぁっ!!」
素早く1体目の首を狙って剣を振り抜き、そのまま次の灰色ヴォルフへ。
こちらの首を狙って飛び込んでくる灰色ヴォルフを避け、右手から忍び寄っていたもう1体へ剣を振るう。2体目。
先程避けた灰色ヴォルフが身を翻して再度襲い掛かってくるのを斬り捨てる。3体目。
ベティが3体と対峙している間に、2体は馬車へと抜けていっていた。急いで戻るが、その時にはすでにキールが残りの2体を倒していた。
「キールさん、ご無事ですか」
「ああ、問題ないよ。ベティも怪我はないかい?」
「はい。……っ、キール様!!」
キールまであと少し、という時だった。
木の陰に潜んでいた1体の灰色ヴォルフが、キール目掛けて飛び掛かって来たのだ。ベティへ向いているキールの、背後だ。
ベティからは、まだ距離がある。
間に合わない。
振り返ったキールが剣を振るう。
しかし位置が悪く、灰色ヴォルフを傷つけはしたが動きを止めるまでには至らない。そして首を狙った灰色ヴォルフの牙が、咄嗟に割り込ませたキールの左腕に食い込む。
それが、スローモーションのように見えた。
「っぐ……」
「はぁっ!! キール様、すぐに手当てを!」
キールの左腕に食らいついていた灰色ヴォルフをすぐさま斬り捨て、傷口を確認する。
服は軽々と食い破られ、キールの左腕からは血が流れている。
急ぎ馬車の荷台に積んでいた手当箱と清潔な布を持ってくると、盛大に消毒液を傷口にぶちまける。
「っつ! ベティ、そんなに大した傷ではないよ」
「いいえ、魔獣の牙は人には毒です。油断はしてはいけません」
大したことはない、というキールには一切取り合わず、ベティは手早く手当てを進める。
魔獣から受けた傷を甘く見てはいけないのだ。かすり傷だから、と放置してそのまま亡くなる者も居る。
そんな最悪な未来を想像し、ギュッと眉間に皺が寄ってしまう。
消毒薬で傷口を洗い、清潔な包帯を巻く。
思い切り噛みつかれていたから傷口は大きいが、幸いすぐに手当てが出来たから、毒の心配はなさそうだ。
一通り手当が終わり、ベティはやっと息を吐く。
そしてそのまま、キールの前で跪いた。
「キール様。申し訳ございません」
「ベティ。いや、油断した私が悪いんだ。私も戦う者なのだから、これは自己責任だよ」
「しかし……」
「確かに君は、私の護衛だ。でも、今回は私も自分を守ることを前提に、2人で旅をすることにしているんだ。だから、ベティは最善を尽くしてくれているよ。傷の手当ても、迅速にしてくれたしね」
そう言って左腕に巻かれた包帯を撫でたキールは、優しく笑う。
そしてベティの頬へと触れる。
「ね。だから、顔を上げてくれないか?」
「……キール様」
見上げた榛色の瞳は、穏やかに笑っている。
この優しい笑みが失われるかもしれなかった。
そう思うと、ベティの心臓が締め付けられるように、苦しくなる。
ギュッと自身の胸元を掴み、細く息を吐く。
そして、頬に触れていたキールの手を取り、真っ直ぐ榛色の瞳を見つめる。
「ベティ?」
「キール様。いえ、キールさん。どうか、私と結婚して頂けないでしょうか!」
「え。今、なの……?」
驚きにキールが、きょとんとしている。
その言葉にふと我に返って周囲を見渡せば、すぐ側に灰色ヴォルフの死骸が転がっている。
さらに自分の服装はスカートを切り裂いた状態だし、二人とも灰色ヴォルフの返り血があちこち付いている状態だ。
ロマンチックの欠片もない。
「あ、え……。その! すみません!!」
「ふふ、謝ることはないよ。ふふふ、むしろベティらしい、かな」
「や、え…………」
あたふたとするベティと対照的に、驚きから立ち直ったらしいキールは楽しそうに笑っている。
そしてワタワタと彷徨わせていたベティの手を取り、満面の笑みを向ける。
「ベティ」
「はっ、はい」
「決めてくれて、ありがとう。とても、うれしいよ」
今まで見たどんなものよりも美しい、喜びに溢れた笑みだ。
キールのその顔をみたベティも、自然と笑みが零れていた。




