第三章その3
「よく逃げずに来ましたわね! 誉めて差し上げますわ!」
「はあ……」
「ナユタさん? そのやる気のなさは何ですか!」
そして迎えた勝負の当日。
何故かやたらとテンションの高いイレーナに、ナユタは辟易していた。
「こっちはそれどころじゃないんです」
「何がそれどころじゃないんですの?」
「アルバートさんが、です」
二人は魔動車の方を振り返る。
ふらふらとアルバートが降りてきた。
「や、やあ……イレーナ様……」
「アルバート! 大丈夫なのですか?」
「ええ……この一週間……魔動車の改良にかかりきりで……ほとんど寝ていない……ふわあ……だけですから……」
「本当に大丈夫なのですか? 勝負は延期しても……」
「そういう訳には参りません。約束の日は今日ですし、せっかくイレーナ様に来ていただいたのですから」
「………」
「早速始めましょう。のんびりしてたら眠ってしまいそうですから」
アルバートはよろよろと魔動車に戻っていく。
「大丈夫かな? アルバートさん……」
「………」
ふと見ると、イレーナも心配そうに顔を歪めている。
アルバートの体調が悪いのはイレーナには好都合なはずだが……。
「あの程度なら問題ない。勝負の結果に影響を及ぼす程ではない」
「アリス……」
そっと隣に立つアリスの言葉に、ナユタは反発を覚えずにはいられない。
「あのね、アリス……」
何か言い返そうとナユタが口を開きかけた、その時だった。
「本人がやると言って聞かないのなら、やらせるしかないと思いますけど」
「きゃっ!」
背後からの声に、ナユタは飛び上がって驚く。
「ルイス……今までどこに行ってたのよ?」
背後からの声の主に、ナユタは恨みがましい視線を向ける。
「まあちょっと野暮用がありまして」
ルイスがへらへらと笑うので、余計にナユタは苛立ちを募らせる。
そこにアリスが割って入る。
「ルイス。首尾はどう?」
「万事抜かりなく」
「それならいい」
二人の会話は短く終わった。
「そこのあなた、お名前は何と言いますの?」
イレーナがルイスに尋ねる。
「お初にお目にかかります。アリスの従者でルイスと言います」
「ではルイス。あなたにスタートの合図をお願いできるかしら?」
「かしこまりました」
ルイスは恭しく頭を下げる。
「ナユタさんとアリスさんは私の馬車にお乗りなさい」
「え? いいの?」
「ハンデですわ。そしてアルバートが惨めに敗れる様を見てもらいます」
「………」
アリスが無言で馬車に乗り込むので、ナユタもその後に続く。
さらにイレーナも御者席に乗り込む。
「御者は……イレーナさんが?」
「いけませんか?」
「いや、そういう訳じゃ……」
「この一週間、今日のために練習しましたから。問題ありませんわ」
「へえ……」
普通なら専門の御者に任せるところだろうが、自ら手綱を取る辺り、色々と思うところがあるのかも知れない。
そしてアルバートの魔動車とイレーナの馬車はスタート位置に並ぶ。
「それではお二人とも、準備はよろしいですか?」
間に立ったルイスが言うと、アルバートとイレーナは無言で視線を交し、頷き合う。
ルイスは指を三本立てた手を頭上に掲げる。
「スリー」
ルイスが指を一本折る。
ナユタは固唾を呑む。
「ツー」
ただ一台の魔動車と、ただ一台の馬車が繰り広げる、ささやかなレース。
それが決するのはただの勝敗だけではない。
「ワン」
アルバートが長年かけた研究の行方であり、そしてこの世界における産業革命という歴史の転換点の行方だ。
馬車の上に身を置きながら、ナユタにできる事はもはや何もない。
「ゴー!」
一際鋭い声と共に、アルバートは手を振り下ろし、魔動車と馬車は同時にスタートを切る。
この世界の命運を賭けたレースが始まった。




