第三章 未来をかけて
それから数日後の事だった。
「アルバート! アルバートはいるかしら!」
工房にイレーナの元気の良い声が響く。
「あら、イレーナ様、いらっしゃい。どうぞ上がって下さい。お茶を煎れますから」
「これはわざわざ丁寧にどうも……じゃなくて!」
「アルバートさーん! イレーナ様がいらっしゃったよー!」
「はいはい……イレーナ様、今日はどうしたんですか? こんなむさ苦しい場所に」
アルバートも奥からのそのそと姿を見せる。
「ふふふ……よく臆する事なく私の前に現れたわね……」
「それはまあ、ここが私の家ですから」
アルバートはあっさりと答える。
「こんな所では何ですから、上がって下さい」
「そうさせてもらいますわ!」
アルバートに案内され、イレーナはずかずかと奥の部屋に入ってくる。
申し訳程度に置かれた応接セットのソファに座る。
ナユタが入れてきた安物の紅茶を文句も言わずに口を付けると、対面に座ったアルバートにびしっと人差し指を突き付ける。
「アルバート! 私と勝負なさい!」
「勝負?」
「私の馬車とあなたの魔動車と勝負するのよ! そして私が勝負に勝ったら、魔動車の研究を辞めるのです!」
「嫌です」
「当然、勝負しますわよね? あなたの魔動車とかいうくだらない玩具を完膚なきまでに叩きのめして……って、え? 何? 今、なんて言いました?」
「だから勝負なんてしませんってば」
「どうして!」
「どうしてって……勝てる訳ないじゃないですか。魔動車はまだ研究途中なんです。将来はともかく、今すぐ勝負するなら勝ち目はありませんよ」
「くっ! ぐぬぬ……!」
「むしろどうして私が勝負を受けると思ったんですか? 勝ち目がない勝負をするバカなんていませんよ」
「どうして? 勝負をしてもいないのにこの敗北感はどうして?」
イレーナは頭を抱える。
「ま、まあイレーナさん、落ち着いて」
ナユタはイレーナに近付いてそっと肩を叩く。
最初は面白くて見ていたけど、何だか可哀想になってきた。
「ううっ、ナユタさん?」
「どうして魔動車と勝負しようなんて思ったんですか?」
「決まっていますわ。魔動車なんてくだらない物の研究を辞めさせたいのです」
「辞めさせたい……?」
イレーナはアルバートに向き直る。
「アルバート! どうすれば勝負を受けるのですか?」
「まああと二、三年もすれば魔動車の性能も上がって、馬車とも渡り合えるかも知れません」
「それでは遅すぎます! 今すぐ勝負なさい!」
「嫌です」
アルバートはにべもない。
「魔動車はこの世界を変える発明です。こんなつまらない勝負のために投げ出す訳にはいきません」
「つまらないとは何ですか!」
イレーナは声を荒げる。
二人の意見は平行線で、妥協する余地などないように思われた、その時だった。
「……別に良いのではないか?」
静かで消え入りそうな声が、やけに大きく部屋に響いた。
「別に良いのではないか? 勝負を受けても」
アリスだ。
部屋の隅っこでうずくまって資料を読んでいたアリスが不意に立ち上がる。
……っていうかアリス、いたんだ。全然気付かなかった。
ナユタは心の中でツッコミを入れる。
「イレーナは魔動車の研究のスポンサーである国王の娘。資金を止める事など雑作もない。勝負を受けなければ、強硬手段に出る。いつかは決着を付けないと」
ナユタはイレーナの方を向くが、イレーナはそんな事しません、と言わんばかりに首を左右に振る。
「し、しかし……現状の魔動車の性能では……」
アルバートが力なく反論する。
「古来より、時代の先駆者は周りから妨害を受け、それを撥ね除けて己の本懐を遂げてきた。同じ事が出来ないと言うのか? アルバートの発明はその程度だというのか?」
「………」
アリスの言葉は厳しさを増す。
「勝負は一週間後。スタート地点はここ。少し行った湖の畔まで先に到着した方が勝ち。イレーナが勝てばアルバートは魔動車の研究をやめ、アルバートが勝てばイレーナは研究に二度と口出ししない。それでいい?」
「え、ええ。それで構いませんわ!」
「アリスさん! 勝手に決めないで下さい!」
アルバートが悲鳴に近い抗議の声を上げる。
しかしアリスはそれを黙殺し、イレーナに帰るよう促す。
「それでは一週間後を楽しみにしていますわ!」
そう言い残してイレーナが立ち去ると、部屋には静けさが戻った。
「ど、どうしよう……? 一週間後なんてむちゃくちゃだ……」
アルバートはいつもの冷静さが嘘のように頭を抱えている。
「あ、あの、アルバートさん、まずは落ち着いて……」
ナユタはアルバートに歩み寄るが、かける言葉が見付からない。
「こんな所で立ち止まっている場合?」
しかしアリスがアルバートにかける言葉は氷のように冷たい。
「あなたの発明が本当に優れているなら、あなたの発明が切り開く未来を見たいなら……あなたがやるべき事は、みっともなく狼狽える事なの?」
「アリス! そんな言い方って……」
「この世界に神様なんていない」
アリスは告げる。
「誰もあなたを苦悩から救ってはくれないし、望んだ未来に連れて行ってもくれない。だから人間は自らの足で立ち上がり、進んできた。未来を切り開いてきた。あなたも科学者なら、同じようにするべきだ。いいや、しなければならない」
「………」
アリスの言葉を、アルバートはどこか虚ろな目で聞いていた。
やがて頼りない足取りで立ち上がると、ふらふらと奥の工房の方へ歩いて行く。
「そうだ……やらないと……私がやらないと……」
「ア、アルバートさん……!」
ナユタは呼びかけるが、アルバートは足を止めない。
いつもより小さく見える背中と、いつもと変わらず無表情なアリスの横顔を、ナユタはただ見比べて狼狽える事しかできなかった。




