第二章その8
買い物を終えたナユタは、用事を済ませたアルバートと共に帰宅した。
「アリスー。ただいまー」
「………」
ナユタは声をかけるが返事はない。
奥に進んでいくと、予想通り資料を読み漁るアリスがいたので、苦笑するしかない。
「アリス。ただいま」
「……おかえり」
近付いてまた声をかけると、ようやく返事が来た。
それでも資料からは目を離さない。
「食材いっぱい買ってきたから。今晩からは私が腕によりをかけて料理をするわ。保存食みたいな食事からはおさらばよ!」
「それは楽しみ」
あまり楽しみそうでもない口調で答えるアリス。
「そう言えばアリスは料理は出来るの?」
「料理は得意……主に食べるのが」
「いや、そうじゃなくて……料理を作る方は?」
「作るのも得意。私の脳内には二百七十五万種を超えるレシピが収められている」
「すごーい! じゃあ一緒に料理しようよ。アリスが元いた世界の料理、食べてみたい!」
「やめた方が良いですよ」
そう割って入ったのはルイスだった。
「膨大なレシピを記憶しているのと、適切に調理が出来るというのは全く別の問題です」
「心外。何を根拠に……」
「帝位を二度追われ、セントヘレナ島に幽閉されたナポレオンに手料理を振る舞った時、どうなったか忘れたとは言わせませんよ?」
「くっ……」
ルイスがアリスに辛辣な事を言い、アリスが悔しがるという珍しい光景だ。
「二回も帝位を追われた上に、酷い料理を食べさせられた……のかな? そのナポレオン? って人はどんな悪い事をしたの……?」
ナユタは素朴な感想を漏らすが、アリスはまた違った食い付き方をする。
「ナポレオン・ボナパルトの行いが善だったか悪だったかは意見の分かれるところ」
「へ?」
「祖国フランスでは諸外国からフランスを守った英雄であるし、諸外国から見ればヨーロッパ全土を蹂躙した破壊者だったと言える。帝政を復活させた事でフランスに芽吹いた共和制の萌芽を摘み取ったとも言えるし、神秘と迷信に彩られた中世以来の旧態依然としたヨーロッパに法による支配と失序をもたらしたとも言える」
「あ、あの……」
「何が善で何が悪か、視点は様々だし、後の世になっても簡単に決められる物ではない。当時は絶対的に正義だと信じられていた事が、後世になってひっくり返る事など枚挙に暇がない。そう、文明の発展だって……」
「………」
ごめん、さっぱり解らない。
アルバートさんなら少しは付いて行けるのかな?
「つい話に興が乗って時間を無駄にした」
そしてアリスは資料に戻る。
「それ、面白いの?」
迷惑かな? と思いつつも、ナユタは尋ねてみる。
「大変、興味深い」
アリスは答える。
「魔導炉は私が元いた世界にはなかったテクノロジー。文化的にも自然環境的にも酷似した二つの世界で、魔力鉱石の存在だけが決定的な相違となっている。その遠因を探るにはこの星の創成まで遡らなければならないだろう」
「ふーん」
「そしてこの発明がどのように発展し、世界にどのような影響を与えていくのか、興味は尽きない」
「………」
やっぱりさっぱり解らない。
でもひとつ気になった事がある。
「ええと、産業革命とか言ってたっけ? それと何か関わりがあるの?」
「産業革命とは私が元いた世界で起きた出来事で、十八世紀、イギリスのジェームズ・ワットが蒸気機関を実用的なレベルに発展させた事に端を発した」
アリスは滔々と語り始める。
「魔力鉱石を動力源とする魔導炉と違い、蒸気機関は石炭を燃焼させて蒸気を発生させ、動力を得る。この蒸気機関を利用した様々な乗り物が世界を繋ぎ、蒸気機関を利用した工場が様々な製品を生み出し、世界に広まっていき、社会構造まで変革させた。これが産業革命」
「………」
「蒸気機関ではなく魔導炉によって同じ事がこの世界にもたらされると、私は踏んでいる」
「ふーん……」
アリスの言う事は難しくてやっぱり解らない。
「そう言えばルイスは作り物だって言ってたけど、もしかして蒸気機関? とやらで動いてるの?」
「僕をあんなロートルと一緒にしないで下さい」
本人から即座に怒られた。
「ルイスは蒸気機関で動いている訳ではないが、産業革命により変革した社会と文明の発展という土壌がルイスのようなアンドロイドと人工知能を生み出したのは間違いない」
「へー」
「そしてこの世界では魔導炉から端を発した産業革命がいずれ人間の性能を遥かに凌駕する人工知能を登場させるに至る……私はそう確信している」
「はー」
今、目の前にある魔動車は馬車にも負けるような発明でしかない。
しかしそれが発展していけば社会を大きく変革させるような可能性を秘めている。
それは胸をわくわくさせる壮大な夢に違いない。
アリスが目を輝かせて夢中になる、その気持ちがナユタにも少しは解る気がした。
「もっとも、そんな未来に至るまでには千年単位の時間が必要になる。ナユタが生きて目にする事は不可能」
「えー? もうちょっと早くなんないの? 一週間くらいに」
「無理を言わない」
ただの村娘に過ぎないナユタにとっては気が遠くなるような悠久の時間を、千七百万年もの時を生きてきたアリスは何度となく繰り返してきたのだろう。
それは何と孤独で……そしてどれほど孤独な事だろう。
自分に何が出来る?
ただの村娘でしかない自分がアリスのために、何が出来るのだろう?
孤独と共に生きるアリスを思って、ナユタは胸が締め付けられた。




