第四章その6
腹と口から血を溢れさせながら、ロザラムのかつての依頼主は自分の流した血で出来た血溜まりの上に倒れ込んでいった。
「悪く思うなよ、じーさん。これも新しい依頼主のご意向だからな」
ラルダーン帝国宰相の命を奪いながら一欠片として悔恨の念を見せず、へらへらと笑ってみせる。
それもそのはず、戦場で、あるいは暗殺という形で、この男が奪ってきた命は三桁に及ぶ。
ひとつふたつ増えた所で、痛くも痒くもない。
「でも良かったんですかね? このじーさん、政務を取り仕切るのに必要だったんじゃないですかね?」
ロザラムは自分の後ろに立つ、新たな雇い主に話しかける。
「余の手腕ではミュランには及ばぬとでも?」
「いや、そういう意味ではありませんけど……」
「どの道、ミュランは余がやるべき事をやる上で障害になるのは確かだったからな。排除するなら早い方がいい。それに……」
ロザラムの雇い主……ラルダーン帝国皇帝マティアスはその幼さの残る容貌に危険な笑みを貼り付かせる。
「余の目的を達成できぬなら、この帝国がどうなろうと関係ない」
「………」
ロザラムは暗殺に失敗し、まだ皇太子だったマティアスを帝都に送り届けて以来、ほとぼりが冷めるまで城を離れていた。
その間に何があったか知る由もないが、甘えん坊で我が儘だが、真っ直ぐな気性の優しい少年だったマティアスの面影はどこにも見当たらない。
だからこそロザラムはこの若き少年皇帝を新たな雇い主として定めた。
この先、こういう仕事が山ほど持ち込まれ、ロザラムに大きな利益をもたらすに違いないと確信しているし、それを思うと笑いが止まらない。
「では後始末も抜かりないようにな」
「ええ。解っておりますとも」
ミュランがルイーザの部屋に押し入り、乱暴を働こうとしたために成敗した、という筋書きを用意している。
ルイーザはまともに証言できる状態ではないし、ミュランの死体もろくに検分せずに焼いてしまえば、疑わしいと思われても押し通せるだろう。
「帝国宰相まで上り詰めたお方が、随分とみっともない死に方をした物ですなあ」
ロザラムは足元の血溜まりに埋もれる死体を見下ろして呟く。
メイドに書かせた偽の手紙にまんまとおびき出され、愛しい女性の変わり果てた姿を目にして刺される……帝国宰相にあるまじき、純情にも程がある死に様ではないか。
ある意味では老いらくの恋に殉じたのだから、本望だったのかも知れないが。
冷徹を以て知られる帝国宰相も、恋に落ちてしまえっば人の子だったという事か。
「しかし……もったいねえなあ」
何が起きたか理解していないのか、ベッドの上に膝を崩して座り込んできょとんとした表情を浮かべているルイーザを目にして、ロザラムの口から小さな呟きが漏れる。
「何だ? 欲しいのか?」
その呟きを聞き止めたマティアスの言葉に、ロザラムは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
「欲しいならくれてやるぞ? そなたは功労者だからな」
自分の姉を姉とも思わず、道具扱いするような言葉。
「いえ、美人がこんな事になってもったいないと思っただけで……いくら美人でも、お高くとまった女や気が違った女を抱く趣味はねえんで」
言ってから、ロザラムは後悔の念を抱く。
聞きようによっては、皇帝の姉を非難し、褒美を断わったのだ。
得てして権力者というのは、どこかに逆鱗を持っている物だ。
不用意に触れれば、それまで築いてきた実績はたちまちひっくり返り、信頼する臣下は切り捨てるべき異物に成り下がる。
ロザラムが緊張する中、マティアスは少しだけ落胆した様子で言葉を返す。
「そうか。気が変わったなら早めに言うがいい。他の誰にくれてやるとも限らんからな」
どうやら逆鱗はそこではなかったらしい。
ロザラムは安堵する。
「これからも余の役に立てよ。そうである限り働きには報いよう。しかし……」
マティアスは声を低める。
「余の役に立たないとなれば、そなたの運命はそこに倒れているミュランと同じだからな」
「ええ。誠心誠意、陛下に尽くさせていただきますとも」
ロザラムは平然と頭を下げる。
しかし内心では激しい葛藤が渦巻いていた。
目の前に立っているのは、皇帝であっても未だ幼さの残る、不敬を承知で言えば小僧……それも剣の腕はからっきし、政治の手腕とて未知数の……でしかない。
しかし幾つもの修羅場を飄々と乗り越えてきたロザラムをして、悪魔に魂を握られているかのような威圧感に息苦しさを覚え、平静を装うだけで精一杯だ。
この小さな身体の中にどんなおぞましい化物を飼い慣らしているのだろう?
自分はもっと上手くやっていると思っていた。
かつての雇い主ミュランから新たな雇い主に上手く乗り換えたと思っていた。
しかしそれはとんでもない思い違いではないのか?
上手く取り入ったつもりで、悪魔に魂を差し出す契約書にサインしたのではないか?
果たしてこの若く危険な少年皇帝の行く先に、薔薇色の未来は待っているのか?
これから訪れるであろう激動の時代を、自分は上手く乗り切れるだろうか?
「いざとなったら、さっさと逃げ出すだけさ」
決して声には出さず、ロザラムは心の内で呟く。
その見切りの早さがロザラムに何度も修羅場をくぐらせてきたのだ。
これまで何度もそうしてきたように、今度も同じようにするだけだ。
哀れな宰相ミュランの二の轍は踏まない、絶対の自信がロザラムにはあった。
ここにあるのは忠誠も信頼もない、ただ己の目的と利益と打算のためだけの関係なのだから。
何が可笑しい事でもあったのか、けたけたと壊れた調子で笑うルイーザの声が室内に響いていた。




