第四章その5
皇帝マティアスが部屋に閉じ籠もったのに続き、その姉ルイーザまでもが部屋に閉じ籠もってしまった。
流石に体調不良という当初からの説明では誰一人納得させる事が出来なくなり、誰もが帝国の未来への心配を臆面なく語り合うようになってきた。
中でも帝国の屋台骨を支える宰相ミュランはこの事態に最も頭を痛めているだろう人物の一人だが、至って平気そうな様子を見せていた。
宰相ともなれば内心の不安を押し隠して皆を安心させる必要がある、とも思われたが、むしろ普段よりも上機嫌なくらいなので、どうした事だろうと誰もが首を傾げていた。
余人には想像も付かない事だったが。老獪で知られるこの老人にとって、事態はある程度、想像していた範囲であり、また彼にとって望ましい状況であった。
マティアスが霊峰ヴィートコフ山に聖剣を納める儀式を無事に終えたという報せを受けた時は肝を冷やしたが、ナユタとかいう少女を始めとした連れがいると聞き、思い直した。
もしマティアスに意中の女性、それも上流階級の出ではなく庶民の生まれの者が現れたなら、ルイーザと揉めるのは必定である。
ルイスというデタラメに強い男がいる間は迂闊に手を出すべきではないと考え、事態が推移するのをじっと待っていた甲斐があったという物だ。
ナユタが城を出て、マティアスが部屋に閉じ籠もったとなれば、ルイーザが頼れる相手は宰相である自分しかいない。
思えば長い雌伏の時間であった。
時間はまだミュランが若く、数多いる貴族の青年の一人に過ぎなかった頃に遡る。
当時、皇太子だったファーディンの元に隣国から嫁いできた姫君を初めて見た時、若きミュランはこれほど美しい女性がいる物かと驚き、そして一目で虜になった。
しかし相手は将来の皇帝を約束された皇太子の妻。
どれほど深く想いを募らせた所で、報われるはずのない恋であった。
せめて少しでも近くにいたいと努力を重ね、ついに文官としては最上位に当たる宰相にまで上り詰めたが、その頃にはミュランの想い人は長女ルイーザに続いて長男マティアスを出産し、程なくして命を落とす。
こうしてミュランが長年、胸の中で秘かに育んできた恋は儚い結末を迎える事になったが、ルイーザが母親の若かりし頃の姿に瓜二つに成長すると、老いた宰相の胸中には新たな野望が鎌首をもたげてきた。
ルイーザを手に入れ、ラルダーン帝国の皇帝として君臨する。
それさえ為せば叶わぬ恋に身を焦がし、宰相として辣腕を振るいつつ内心では気苦労が絶えなかった日々も報われる事だろう。
そして今朝、ルイーザから届いた手紙がミュランを狂喜させた。
今夜、誰にも知られないように、一人で私の部屋を訪ねて欲しい。
そう書かれた手紙の意味する所が、ただ単に会って話がしたい、という事ではない。
男女の関係を結びたい、と読み取るのが当然だ。
そして意気揚々、ミュランはルイーザの部屋を訪ねたのだった。
「愛しのルイーザ様。あなたのミュランめが参りましたぞ」
ノックの後、ミュランは興奮を抑えきれない声で部屋の主に来訪を伝える。
「………」
しかし部屋の主からの返答がない。
「ルイーザ様……? いらっしゃらないのですか……?」
恐る恐るドアノブに手をかけて回すと、鍵はかかっていなかった。
そっとドアを押し開けて中を覗き込むと、カーテンを閉め切った薄暗い室内は、誰かが暴れ回ったかのように物が散乱している。
「誰……?」
か細い、消え入りそうな声が聞こえてくる。
「おお、ルイーザ様、いらっしゃったので……」
ようやく見付け出した想い人の姿に、ミュランは息を飲む。
薄い夜着は見る影もなく破れ、化粧もしていなければ美しい金髪は乱れるに任せたままになっている。
そして薄い唇は病人のように青白く、宝石のような青い瞳には怯えの色が浮かんでいる。
かつてミュランを一目で虜にし、長年想いを募らせてきた麗しい美姫の姿はどこにもない。
これではまるで、物狂いのようではないか……?
「ルイーザ様……なんとお労しい姿……一体何が……」
「男……? いやあああああ! 男は嫌! こっちに来ないで!」
ぽん、と軽い衝撃がミュランの腹に伝わる。
ふと見下ろすと、女児が遊ぶような小さなぬいぐるみが足元に転がっていた。
「乱暴しないで! あっちに行って! 来ないで!」
ぬいぐるみだけではなく、身の回りの物を手当たり次第で拾っては投げ付ける。
狙いがデタラメなのか、その多くはミュランの身体には当たらなかったし、当たった物も大した衝撃を与えない。
しかしミュランが心に受けた衝撃は計り知れない。
これではまるで物狂いのよう、ではなく、物狂いその物ではないか……?
ルイーザの身に何があったのか、辣腕を以て知られる宰相とて知る由もない。
しかしひとつ確実に言えるのは、ミュランが長年募らせてきた想いも、皇帝への野望も、儚く潰えたという事で……。
「がふっ!」
呆然とするミュランの背中から腹にかけて、灼熱の感触が貫く。
自分の腹から血に塗れた剣の切っ先が突き出しているのを見て、次に首だけを捻って自分の背後に立つ人物を見る。
「ロザラム……?」
自分の命を奪った人物の名前を呟いて……ラルダーン帝国の屋台骨を長年に渡って支え続けた老宰相は、その輝かしい生涯を惨めな幕切れで終えた。




