第四章その4
手を上げられた姉と、手を上げた弟と、その事実を把握し、受け入れるのにしばしの時間を要したのは二人とも同じだったが、その後の反応は全く違う物になった。
「マティアス……あなた……姉である私に手を上げたのですか……?」
幼い頃に母を亡くし、姉として自分なりに弟の母親代わりを務め、厳しく躾けてきたつもりだった。
その甲斐あって、時に我が儘を言ったり甘えたがったりする事もあるが、基本的に自分の言う事を聞く、従順な少年に育ったと思っていた。
それがこのような形で手痛い裏切りを受けたのだ。
最初の戸惑いが収まると、激しい怒りが湧き上がるのは無理もない事だった。
「………」
一方、マティアスは姉の頬を打った自分の手を呆然と見下ろしていた。
こんなに簡単な事だったのか。
幼い頃から絶対的な存在としてマティアスの頭上に君臨し、自分の一挙手一投足を監視し、事あるごとに厳しく口出ししてきた姉。
生涯、背く事は出来ないと、いや背く事など思いも寄らなかった存在が、無造作に暴力を振るうだけで簡単にねじ伏せられる。
マティアスは意外に思うと同時に、昏い喜びを感じていた。
「謝りなさい! 姉である私に手を上げた事を謝りなさい!」
ルイーザはマティアスに詰め寄る。
しかしマティアスがまた頬を打つと、床にへたり込んでしまう。
それでも二度、三度と立ち上がるが、その度にマティアスに頬を打たれる。
これまでルイーザが生きてきた上流社会は暴力とは無縁の世界であり、このような理不尽な暴力に晒された事はなかった。
いくら気が強いと言っても、ルイーザは蝶よ花よと育てられた貴婦人である。
誠意のある言葉も、優雅な振る舞いも、姉という立場も通用しない、単純で圧倒的な暴力を前にしては為す術もなかった。
泣きじゃくり、髪も乱れ、化粧も崩れ、普段の美しさは見る影もなくなり、ついにルイーザは立ち上がって反抗する気力を失った。
「嫌……お願い……許して……何でも言う事を聞くから……」
「………」
「ナユタの事を怒っているのでしょう……? 認めるから……マティアスとナユタが一緒にいる事を認めるから……ひっ!」
マティアスが腕を振りかぶって殴る素振りを見せるだけで、ルイーザは短い悲鳴を上げて肩を竦ませる。
「許して……痛いのは嫌なの……暴力は嫌なの……お願い……」
「………」
マティアスはなおも無言のまま、姉の腕を掴んで力尽くで立たせると、さっきまで自分が寝ていたベッドに突き飛ばす。
そして優しさや気遣いとは無縁の乱暴さでドレスの胸元に手を伸ばすと、力任せに引き裂いた。
ルイーザは悲鳴を上げ、生まれて初めて異性の前に晒された乙女の柔肌を両腕で隠す。
「な、何をするの? 私達は姉弟なのよ! こんな事は許されないわ……! やめて……!」
ルイーザの悲痛な訴えはマティアスの心に届く事はない。
弟にとって尊敬する姉だったはずの自分がすでに路傍の石と同じ存在に成り下がっている事を。
心優しい、愛する弟だったはずのマティアスがすでに得体の知れない化け物に成り果てている事を……。
ルイーザは今宵、嫌と言う程にその肢体に叩き付けられ、刻み込まれる事になった。




