第四章その2
誰もいない部屋で、マティアスはナユタが使っていたベッドに顔を埋めていた。
私物も綺麗に持ち去られた今や、マティアスに残されたナユタの面影は、思い出の他にはベッドに微かに残る香りくらいだ。
あんなに長い間、一緒にいたのに、たくさん言葉を交したのに、形に残る物は何も残していかなかった。
マティアスの心に温かな思い出と、深い深い悲しみだけを残して、ナユタは去って行った。
「ナユタ……ナユタ……ナユタ……!」
マティアスの瞳からはしとどに涙が零れ落ちる。
ベッドを濡らせばナユタの残り香が消えるのは解っているが、それでも涙を止める事が出来ない。
ふと窓が軋んだ音を立てて開き、冷たく澄んだ夜の空気が流れ込む。
マティアスが顔を上げると、そこには白い服を着た少女が立っていた。
夜の闇から溶け出したような長い黒髪をさらさらと揺らし、少女は深淵を思わせる瞳に悲しげな色を湛えていた。
美しく、儚げな、そして不吉な空気を纏う少女の名を、マティアスは知っていた。
「アリス……アリス……! アリスなのか! ナユタは? ナユタはどこにいる? 一緒じゃないのか?」
「………」
「ナユタが余の前からいなくなるはずがない。少なくとも余に黙ってなどあり得ない。ナユタはどこだ? どこにいる!」
「安心して。ナユタは無事。危機を察して、私が逃がした」
「そ、そうか……良かった……」
マティアスは安心したのか、ぐったりと床に崩れる。
そんなマティアスの安堵を打ち砕くように、アリスは淡々と告げる。
「今、この国はマティアスとナユタが一緒にいる事を望ましく思わない人がいる。ここにナユタを置いておくわけにはいかない」
「そ、そんな……!」
「ナユタから手紙を預かって……」
「よこせ!」
アリスが差し出す手紙を、マティアスはもぎ取るように奪い取り、貪るように読み進める。
「どうしてこのような手紙を……ナユタは余の前から去るつもりだったのか?」
「こうなる事は私が予想していたし、ナユタも覚悟はしていたから、手紙を書くように勧めた」
「そうであったか……しかし解せないのは、立派な皇帝になって下さい、という部分だ。ナユタらしくない気がする」
「………」
「教えてくれ、アリス。立派な皇帝とはどういう事だ? ナユタは余に何を望んでいる? どうすればナユタは余の元に帰ってくる?」
「マティアス、いい?」
アリスはぐっとマティアスに顔を近付ける。
「あなたが、正しい」
「………」
「あなたは、正しい、ではなく、あなたが、正しい。路傍の石はそれだけでは罪ではないが、マティアスが歩く進む途上にあるのなら、それは重大な罪。あなたがそれを排除する事は正しいし、そうしなければならない」
アリスはいつになく多弁に、マティアスに説いていく。
「自分の利益のためだけに動く人間に利益を与え、あなたのために働かせる。人倫や道徳を物差しにあなたの行ないを咎める者を、あなたは排除しなければならない」
「し、しかし……そのような事をナユタが望むだろうか?」
「ナユタが望もうと望むまいと、どうでもいい。それとも、いいの?」
アリスは悩める少年皇帝に、最後通牒を叩き付ける。
「もう二度と、ナユタに会えなくても?」
「……!」
全身に電流が走ったような衝撃に、マティアスは目を見開く。
「嫌だ……! それだけは絶対に嫌だ……! ナユタのためなら、余は皇位だって捨てられる! 世界中の人間から憎まれ、蔑まれようと、ナユタのためなら喜んで受け入れる……!」
「それは逆。ナユタのために、あなたは自分の権力を有効に活用しなければならない。このラルダーン帝国を、この世界を、あなたとナユタのための楽園に作り替えなければならない。そうしなければナユタはあなたの元に帰って来ない」
「………」
「マティアス。あなたにとっての正義は?」
「ナユタ……ああ、そうだ。ナユタだ。ナユタは世の全てだ。ナユタがいない世界など、余にとって何の価値もない」
「そう。そしてそれを阻む者は全て排除すべき敵」
「全て……敵……全ては……敵……」
マティアスは暗い表情で、ぶつぶつと譫言のように呟きを繰り返す。
自分の謀が成功した事を知って……アリスは悲しげに瞳を伏せた。




