第二章その16
翌日の夕方、予定通りルイスとマティアスが帰ってきた。
部屋に入ってくる前に襲撃を、などという蛮勇を絵に描いたような愚策をロザラムは選ばなかったらしく、マティアスを伴ったルイスは悠然と姿を現わした。
「やあ、これはみなさんをお揃いで」
ルイスはいつものように酷薄な笑みを浮かべて、気楽な言葉を発する。
一方、マティアスはおどおどとした様子でルイスの足元にべったりとくっついている。
「よお、遅い到着じゃねえか。待ちくたびれたぜ」
ロザラムも負けじと応じる。
「申し訳ありません。余計な荷物がありましたので、ペースを上げられなかった物ですから」
天下の皇太子殿下をお荷物扱いする、傲慢その物の態度。
お互いに自分のペースを崩さない。
「ナユタ! アリス! 無事か! こいつらに酷い事をされなかったか?」
マティアスが心配して声を上げる。
「余の命を狙うだけならいざ知らず、無関係な二人に手を出すとは! 恥を知れ!」
「マー君……」
地団駄踏んで怒りを露わにするマティアスに、ナユタはこんな時に不謹慎ではあるが、じんとする。
「流石は皇太子殿下。慈悲深い事で」
ロザラムは皮肉げに笑みを浮かべる。
「なら話は早い。殿下の身柄とこの嬢ちゃん達二人。交換レートとしてちょうどいいと思いませんかね?」
「よ、余が行けば二人を解放するのだな?」
「ええ、もちろん。必要なのは殿下の身柄だけですから」
「わ、解った。今からそっちに行くから、二人を解放しろ!」
勇ましくそう言って、マティアスは震える足で一歩踏み出す。
「マー君! 早まっちゃダメよ! マー君は皇帝になって、お姉さんを助けるんでしょ?」
ナユタは後先考えずに声を上げる。
「う……! そうだが……だからといってそなたらを犠牲に出来るか!」
「私たちの事は良いから、マー君は自分の事を考えて!」
「ナユタ……」
マティアスはすでに涙ぐんでいる。
「あのー。盛り上がっている所を大変申し訳ないのですが」
軽い調子でルイスが割って入る。
「みなさん何か勘違いしていらっしゃるようですが、そもそも僕は交渉するつもりなんてありませんから」
「……何?」
「僕は当初の目的通り、殿下を帝都にお連れします。本当は黙って行っても良かったのですが、ロザラムさんがここで待ちぼうけする事になっては可哀想だから、わざわざここに立ち寄っただけです」
「おいおい、嬢ちゃん達がどうなってもいいのか?」
「どうぞ煮るなり焼くなりご自由に。殿下を帝都にお連れしたら、また取りに戻りますから。さあ行きましょう、殿下」
ルイスはマティアスの手を引いてこの場から去ろうとする。
「おい! ちょっと待てよ! こいつらはお前の連れじゃねえのかよ!」
流石のロザラムも声を荒げる。
「まあ正直、ナユタさんは頼んでもいないのに勝手に付きまとってきて邪魔だったので、この際お引き取りいただくのにちょうどいい機会かと」
「ルイス! あんた私の事、そんな風に思っていたの? この人でなし!」
「人でなし?」
ナユタが怒りを爆発させると、ルイスは酷薄な笑みをより深くする。
「人でなし? 今になってようやく気付いたんですか?」
「なっ……!」
「それにナユタさん、あなたさっき、殿下のために犠牲になるって言いましたよね?」
「いや、それはその……自ら犠牲になるのと犠牲にされるのは違うというか何というか……」
「さようならナユタさん。あなたの尊い犠牲は忘れません……では殿下、行きましょう」
再びマティアスの手を引いて行こうとするルイス。
「ま、待て! ルイス!」
マティアスはルイスの手を振り解こうと暴れるが、その手はびくともしない。
「聞き分けて下さい、殿下。あなたはラルダーン帝国の頂点に君臨する身。ただの村娘に過ぎないナユタと引き換えに出来る程安い物ではないのです」
「し、しかし……!」
「あなたの身は全ての臣民を所有し、また所有されているのです。あなた一人の自由に出来る物ではないのです」
ルイスは涼しい顔で、しかし尚も抵抗するマティアスを物ともせず、引き摺りながらドアに向かって足を進める!
「ま、待ちやがれ!」
ロザラムが怒声を上げる。
「この部屋から一歩でも外に出てみろ! そこの嬢ちゃんの喉元を掻っ捌いてやるぞ!」
見ると騎士の一人がアリスの喉元に鋭利な短剣を押し当てている。
僅かでも手を動かしたなら、たちまち白い喉元から真っ赤な血が溢れ出し、床一面に広がる事は疑いない。
「ははっ、ナユタって娘に人質としての価値がないのは解ったが、こっちのアリスって娘ならどうだ?」
それでもルイスは眉一つ動かさない。
「やれやれ」
手首を閃かせる。
どこに隠し持っていたのか、その手にナイフが現れる。
ナイフと言っても食事用の、武器にするには余りにも心許ない物だ。
「アリスがあなた方如きでどうにか出来る存在だと、本気で思っているのですか?」
最小限のモーションで放たれたナイフは狙いを過たず、アリスを取り押さえている騎士でもロザラムでもなく、アリスの眉間に突き刺さる。
「……!」
本来は料理を切るためだけの、人を殺傷するだけの鋭利さを求められないはずのそれに、一体どれほどの膂力が込められているのだろう。
一同を瞠目させ、また注意を引き付けるには充分だった。
「だから、言った」
眉間に根元近くまでナイフが突き刺さってなお、それどころか一滴の血を流す事さえなく、ナユタは何事もないかのように淡々と語る。
「自分一人ならどうでもなる、と。千七百五十三万六千八百九十二年と七ヶ月二十五日と八時間三十四分五十五秒、生きてきた。こういう目に遭った事が一度でもなかったと、どうして思う?」
アリスの瞳がこの場にいる他の誰でもなく、ナユタの目を射貫いて放さない。
いつもと変わらない淡々とした口調が、やけに重く心にのしかかる。
「特に酷かったのは中世ヨーロッパで魔女だと疑われた時。指の爪を剥がされるなんて軽い方。焼きごてを身体に押し付けられ、身体に重しを付けて何時間も吊されたし、火炙りにだってなった。滑稽だったのは、手足を縛って川に沈められた事。浮かべば魔女で、浮かなければ魔女じゃない? 魔女なら火炙りだし、浮かなければ溺死するだけ。ナユタが言う『女の子ならではの酷い目』にだって何度も遭わされてきた」
「………」
「この体内に巣食う高度医療用ナノマシンが、どんな病も、怪我も、そして寿命でさえも、およそ考え得るありとあらゆる死の原因となる要素を立ち所に取り除く。死という誰にも平等な安息さえも、私を苦痛と責務からは解放しない」
「………」
「あなたとは、生きてきた世界が違う」
アリスが静かな声で、しかし確かな重圧を伴う声で言う。
「生きてきた時間の重みが違う」
ナユタは何も言葉を返せない。
アリスの言葉が胸を締め付け、言葉を発するどころか呼吸をする事さえままならない。
それなりの覚悟はして、アリスと行動を共にしようと思ったつもりだった。
だけどそれは思い違いではなかったのか?
その程度の覚悟で足りるのか?
アリスの語る言葉の重みは、もはやナユタというちっぽけな秤では計り知れないのではないか?
そんな風に痛感せざるを得ない。
だけどいつもと変わらない淡々とした口調は、どこか切々と救いを求めているようで……。
「ではアリスを返してもらいますよ」
ルイスは両腕を揃えて水平に突き出す。
避けるような暇を与える事もなく、両の拳がアリスとナユタを取り押さえる二人の騎士を一度に殴り飛ばす。
そのまま二人の少女を拘束するイスの背もたれを掴むと、瞬く間に引き寄せてしまう。
「………」
その場から一歩も動かないままに繰り出された早業に、一同は止める間もなく、声を出す事も忘れて、ただ呆然と見ている事しか出来ない。
ルイスはさらに二人の手足を拘束するロープも素手で引き千切ってしまう。
「今……ルイスの腕が……」
ナユタは確かに見ていた。
ルイスの腕が人の背丈の何倍にも延びていた事を。
それだけでなく、袖の先から伸びる腕が、金属めいた銀色の光沢を放っていた事を。
もはや人間業とかいった問題ではなく、ルイスが人間の皮を被った化け物としか思えない。
「まあ、僕はナユタさんの言う所の、人でなし、ですから。これくらいの事は出来るんですよ」
「いや、そういう問題じゃ……」
ルイスの浮かべる酷薄な笑みは、どんなに仔細に見ても人間のそれにしか見えないのに、いや非の打ち所がないほどに人間臭いからこそ、逆に作り物めいて見える気がする。
「ルイスは人間ではない」
アリスが感情のこもらない声で静かに言う。
「私が開発し、人類を滅亡に追いやった高性能AI、TYPE-ALICEの最終形態を機械の身体に搭載したアンドロイド。それがルイス」
「………」
「人類を滅亡から救うために時間遡行を繰り返し、人類の歴史と文明に反旗を翻した私の身を守り、私の心が挫けそうになれば支える。私が生みだした、私の忠実な、そして私を束縛する機械仕掛けの従者。それがルイス」
アリスの言葉は、その半分もナユタには理解できない。
だけどルイスが人智を越えた存在であるという事は解った。
「さて、人質はいなくなりましたが、どうしますか?」
ルイスはロザラムに言う。
「あくまでも無駄な抵抗を続けるのであれば、相手になりますよ? もっとも……」
ルイスは口の端に笑みを閃かせる。
「あなた達程度の技術水準で僕を破壊できるとは思わない方が身のためですよ?」
「………」
ロザラムもようやく衝撃から立ち直ったのか、余裕の笑みを取り戻している。
しかしその口から出てきた言葉は強気な外見とは裏腹な物だった。
「やれやれ……これは降参するしかなさそうだな」
そしてロザラムは剣を放り捨てる。
「おい! お前らも武器を捨てな!」
ロザラムが強い口調で命じると、残りの騎士達も素直に、あるいは不承不承といった様子で武器を床に投げ出す。
「無理に襲ったところで勝てそうな気がしねえ。反撃されて全滅か、いいとこほぼ全滅だからな。約束の報酬じゃ割に合わねえ」
「賢明な選択ですね」
「で、提案なんだが、これから帝都に戻るんだろ? その護衛をさせてもらえないか?」
ロザラムは悪びれた様子もなく、いけしゃあしゃあと言い放つ。
「今まで私達にあんな事しといて、今さらどういうつもりよ!」
「そうだそうだ! お前らなど信用できるか!」
ナユタが怒りの声を上げると、マティアスも同調する。
「まあ嬢ちゃんと殿下が疑うのも無理はないわな」
ロザラムは鼻の頭をかいてぼやく。
「俺達は殿下の護衛をするふりをしてその命を狙っていた訳だが、それが無理になった以上、次善の策として護衛をしないと、帝都に帰るに帰れねえんだよ」
「自分の都合ばかり言って、マー君や私達に何のメリットがあるのよ。あんた達が一緒じゃ安心して眠れやしないわ」
「先回りして街道の安全を確かめたり、宿を確保したりしてやるよ。それに、護衛の俺達がいなくなったら殿下も色々詮索されるし、俺の依頼主との折り合いが悪くなったら都合が悪いんじゃねえか?」
「う……」
ナユタは反論の言葉に困る。
「アリス~~~あいつあんな事言ってるよ? 信用出来ないよね?」
「別に構わないのでは?」
「え~~~?」
「お互いにメリットはある。提案を受け入れるべき」
「でもでも! マー君の命を狙っていたのよ! 信用できないわ!」
「ルイスがいる限り、私達には手出しできない。この男は自分の利益のために冷静に判断できるタイプ。感情に流されるタイプよりずっと信用できる」
「お、こっちの嬢ちゃんは話が解るな。まあそんなに長い旅でもなし、仲良く頼むわ」
「うるさい! あんたなんか馬に蹴られて肥溜めに落ちちゃえ!」
「がははははは」
笑い声を上げつつ、ロザラムは部下を連れて逃げていく。
「ああっ、もう……!」
ナユタはため息をつく。
「ああ、ルイス、さっきはありがとう」
「え? 何ですか?」
「さっき、勝手に付きまとって迷惑だとか言って、あれって私を守るための方便なんでしょ?」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ええまあ、そんな所です」
「何よその超絶長い間は!」
「やだなあ、僕がナユタさんを迷惑だと思っていないはずないじゃないですか」
「やっぱり迷惑なんじゃない!」
「ああっ! ナユタさん、痛い! やめて下さい!」
ナユタが向こうずねを蹴飛ばすと、ルイスは大袈裟に逃げ惑う。
その感触が余りにも人間のそれと変わらなくて、ナユタは顔には出さず、秘かに戸惑った。




