第二章その14
その日の夕方、ナユタとアリスは夕食を摂っていた。
「美味しいね。アリス」
「………」
舌鼓を打つナユタの言葉に、アリスはこくこくと頷く。
「マー君はもう山頂に着いた頃かな? 晩御飯ちゃんと食べているかな?」
心配性の母親みたいなナユタの言葉に、アリスはわずかに眉を潜める。
「ルイスが一緒だから心配ない」
「いや、それは解っているんだけどね……」
ナユタは自分の心配しすぎを指摘されて苦笑する。
「そう言えば、私とアリスで二人っきりっていうのも初めてよね?」
初めて会った時にはルイスがいたし、マティアスと会ってからは四人一緒だった。
こんなに長い間、アリスと二人だけの時間を過ごした事はなかった。
「………」
しかしアリスはナユタの感慨を余所に、小さな紙をテーブルに広げると、ペンで何やら書き込み始める。
どうやら神殿の見取り図らしい。
「ナユタに話したい事がある」
「な、何?」
「追っ手が狙っているのはマティアスの命。絶好のチャンスはマティアスが一人きりになり、邪魔も入らなければ事故に見せかける事も簡単な、山頂に向かっている時、と判断するのが当然。解る?」
「う、うん……」
その程度の事ならナユタだって解る。
しかし解らないのは、アリスが今になってそんな話をしてくる理由だった。
「ところが山頂に向かうマティアスの側にはルイスがいる。かつてルイスに痛い目に遭わされた経験を持つ彼らなら、襲撃を強行しても返り討ちに遭うのが関の山……そう考えるに違いない。解る?」
「そ、そうよね……でもそれなら問題ないんじゃない? マー君が無事なら……」
「それで諦めてくれるなら、こちらとしてはこれほど有り難い事はない。しかしそう簡単に諦めると思う? 皇太子殿下の命を狙うなんて大それた事をしでかす奴らが? 護衛を任された彼らだから正体だって割れているし、おめおめ手ぶらで帝都に戻れば無事で済むとは思えないのに?」
「あ……う……」
ナユタは反論の言葉もない。
無事にマティアスが山頂に辿り着き、帰ってくる事だけを考えていた。
しかし追っ手がどう出てくるかまではまるで考えていなかった。
「彼らならこう考えるはず。マティアスを襲撃するのは無謀でも、麓の神殿にはか弱い女が二人いる。人質に取ればルイスにマティアスの命を差し出させる事も出来るのではないか、と。そして私達には彼らを撃退する力はない」
「………」
「私はルイスではないし、ルイスのような力は持っていない」
「で、でも、ここには神殿の人もいるし……」
「私達がここまでの旅に時間をかけた分、彼らはずっと先に神殿に辿り着いている。大した警備がないのはよく解っているはず。そして何より……」
アリスはわずかに声を潜める。
「彼らはすでに行動を開始していて、私はそれを把握している」
そして神殿の見取り図を書いた紙をそっと差し出す。
すでにその上には脱出経路と思しき曲がりくねった矢印が引かれていた。
「今、ナユタがするべき事は、この地図に書かれた通りに一人で逃げる。それだけ」
「え……?」
頭をがつんと殴られたような衝撃を感じ、ナユタはイスから腰を浮かせるが、ふらふらと足腰が震え、テーブルに手を着く。
「えっと……私が先に逃げるだけだよね? 後からアリスも逃げてくるんだよね?」
「私は逃げない」
アリスははっきりと断言する。
「私が捕まれば、人質は一人で充分と考えてナユタは見逃す可能性が高いし、私を拘束するのに人手をかける分、ナユタへの追っ手が減る。それが狙い」
「………」
「だからナユタ。これを持って早く逃げて……」
アリスは地図をナユタの手に握らせようとするが、ナユタはそれを振り払う。
「……嫌よ」
「ナユタ……?」
「嫌よ! アリス一人を犠牲にして、私だけ逃げる訳にはいかないわ!」
ナユタはアリスの手を両手でぎゅっと握る。
「そうだ! 一緒に逃げればいいわ! うん、二人ならきっと何とかなる!」
「それはダメ。私とアリスと一緒に逃げた所で、マティアスとルイスが戻ってくる明日の夕方まで逃げ切れる可能性は極めて低い」
「そ、そんな……」
ナユタはよろよろとイスに崩れ落ちる。
アリスはほっと安堵のため息をつく。
「解ってくれて良かった。もう時間がない。早く荷物を持って……」
「……嫌よ」
「ナ、ナユタ……?」
ナユタの口から漏れる低い呟きに、アリスは表情を引きつらせる。
「嫌よ。二人捕まるよりは、一人だけでも逃げた方がいい? そういう問題じゃないの。私の生き方の問題なの。アリスを犠牲にして私だけ逃げる訳には行かない」
ナユタは地図を手に取ると、アリスのすぐ手前のテーブルの上にばんっと叩き付ける。
「一人だけでも逃げた方がいいって言うなら、アリスが逃げなさい。いい?」
「ナユタ……そんなワガママを言わないで……!」
結局、二人の不毛な言い争いは、ドアが乱暴に叩かれて、すでに逃げる機会が失われる事を知るまで続いた。




