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妄執世界のアリス  作者: 千里万里
第二部 少年皇帝の岐路
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第二章その8

 翌朝、宿で一夜を明かした一行は揃って朝食を摂っていた。

「今日はどうしようかなあ?」

 ナユタは食事の手を止めて声を上げる。

 昨日は一日、歩いたから、今日は宿で一日のんびり過ごす予定である。

「剣の稽古はしないのか?」

 マティアスが尋ねる。

「いや、剣の稽古ばっかりしてもねー」

「いい加減だな」

「うん。そもそも思い付きで始めた事だし」

 あっけらかんとナユタが認めるので、マティアスは反論の言葉もない。

「ねえアリス。マー君に教えてあげられる事って何かない?」

「教えてあげられる事……?」

 アリスは眉を顰める。

「教えられる事なら、山程あるが……」

「じゃあ何かちゃっちゃと教えてあげてよ。簡単ですぐに役に立つようなの」

「論語や孟子、韓非子といった古代中国の思想から孫呉の兵法、クラウゼヴィッツの戦争論、甲陽軍鑑といった戦争で役に立つ知識……初歩の物理学からアインシュタインの相対性理論や超弦理論、それにマルクスの資本論やアダム・スミスの国富論といった古典的経済論からピケティの二十一世紀の資本論といった比較的新しい経済学……他にもポアンカレ予想の解法といった数学の難問まで教えられる事なら多岐にわたるが……」

「ごめん。何の呪文かな?」

「一日二日教えたくらいで身に付くはずもないし、異なる世界の学問を広める事がこの世界のために正しいのか、私には判断しかねる」

「うん、ごめん。アリスに頼んだ私が悪かったわ」

 ナユタは真顔で頭を下げる。

「アリスがあてにならないとなると……どうしようかしら?」

 ナユタが再び悩み始める頃、マティアスがルイスに話しかける。

「のうルイス。そなたは強いのであろう?」

「ええ、まあそうですね」

 ルイスはにこやかに笑って答える。

「なら、ナユタを簡単に打ち負かす方法を余に教えよ」

「ちょ、ちょっと……」

 ナユタは思わず口を挟む。

 しかしルイスもマティアスも聞いていないようで。

「騙し討ちでもなさるおつもりですか?」

「そうではない。正々堂々とナユタと戦って勝ち、一人前だと認めさせたいのだ。できればこの旅が終わる前に」

「………」

 そんな風に思っていたのか。

 ナユタは微笑ましくマティアスの横顔を見つめる。

「剣術を教えるプログラムは備えていますが……そもそも僕の強さは人外の基本スペックの高さですし……一朝一夕で勝つのは難しいと思います」

「そうか……やはり難しいか……」

 マティアスはむむむと唸り声を上げて頭を抱える。

「まあ地道に稽古を続けるしかないという事ね」

「うーん……」

 ナユタがあっけらかんと言うと、マティアスは唸り声で答える。

 しかし真面目に稽古しないと強くなれないという事を理解するようになっただけで、この世間知らずの皇太子殿下には良い兆候のように思えた。

「あ、そうだ。マー君のお姉さんってどんな人なの?」

「姉上の事か?」

「うん、そう」

「姉上はとても綺麗な人だ。弟である余の身びいきだけでなく、皆もそう言っておるぞ」

「へえ。マー君と似てるのかな?」

「うむ。余に良く似て美しいのだ」

 マティアスは態度と言葉遣いはあれだが、見た目は天使みたいに綺麗で、そこは王子様の面目躍如といった所だ。

 その弟に良く似た姉となれば、やはり美しいに違いない。

「見た目だけでなく生き方も美しい人だ。余が幼い頃に母上を亡くしてからは、姉上は母上の代わりをしてくれた。いつも自分を厳しく律しておられ、余にもそれを求める。そして皇族としての立ち振る舞いを忘れない」

 自分の事のように自信満々に語るマティアス。

 その辺はちょっと違うかな? と微笑ましく思うナユタ。

「しかし……だからこそ時々不安になる。あまりに自分に厳しいと、いつか疲れて倒れてしまいそうな気がするのだ」

「………」

「もっと自分を労って欲しい。そしてそのためにも余は皇帝になって姉上を安心させ、守れるようにならねばならぬのだ」

 少しだけ寂しそうに、だけど力強く宣言するマティアス。

 子供のように見えて、意外と周りを見てしっかり考えていると、ナユタはマティアスの評価を上昇させた。

「立派だね。マー君は」

「な、何を言うのだ! 余は最初から立派に決まっておる!」

 誉められて照れたのか、頬を赤く染めるマティアス。

「旅が終わったら、お姉さんに会えるかな?」

「もちろんだ! 余も姉上とナユタには仲良くしてもらいたい!」

 破顔して力強く言うマティアス。

「さあ、余は姉上の事を話した! 今度はそなたらの番だ!」

「え?」

「考えてみれば、余はそなた達の事を何も知らぬ。詳しく話してはくれないか?」

 と、期待にきらきらと目を輝かせて訴える。

「まあそれはいいんだけど……大して話すような事はないのよね。ただの村娘だし」

 村長の娘に産まれた事。

 母親は自分が小さい頃に亡くなった事。

 故郷の村では畑を耕したり、森に入って狩りをしたり、川で魚を捕ったりして生計を立てていた事。

 身を守るために村で自警団を作り、そのリーダーらしき物をやっていた事などを話した。

「ナユタはすごいな。だからそんなに強いのか」

「いや、うちの村の男どもが揃いも揃って頼りないだけで……あと私はそんなに強くないし」

「それでアリスとルイスとはどうやって知り合ったのだ?」

「それはね……」

 ナユタは話を続ける。

 村が焼かれ、野盗から逃げている所にアリスとルイスと出会い、助けられた事。

 功労者への「褒美」としてアリスに連れられ、とある街の酒場で給仕娘として働く事になり、領主のダルトンと出会った事。

 城でメイドとして働く事になったが、街が隣町の軍隊に襲われて壊滅し、再びアリスやルイスと一緒に旅をして、ラルダーン帝国に着いた事。

 アリスが軍師として隣町の軍隊に参加していた事は伏せて話した。

「ナユタ……そなたはこれまで苦労してきたのだな……」

 らしくもなく、しみじみと言うマティアスに、ナユタは何だか照れくさい気持ちになる。

 ダルトンの街にいた短い期間はそう遠い昔の事でもないのに、思い出すとぎゅっと胸を締め付ける懐かしさを感じさせた。

「いや、苦労だなんてそんな……」

「アリスとルイスの事も聞きたい。ナユタと出会う前はどうしていたのだ?」

「………」

 アリスは話す事をためらったのか言葉を探したのか、短い沈黙の後に口を開く。

「こことは違う世界に、一人の少女がいた」

「こことは違う世界? どのような世界なのだ?」

 アリスの唐突な語り口に、マティアスは頭から否定せずに興味を示す。

「この世界より遥かに進んだ文明を持つ世界。遥かに進んだ道具を開発し、遥かに進んだ法律と社会システムを構築した世界」

「………」

「その世界では馬の代わりに、自動車と呼ばれる鉄の車が人や荷物を運ぶ。飼葉を食べる代わりにガソリンと呼ばれる燃える水を燃やして走り、疲れもしなければ乗り手の意志に背く事もない、馬より遥かに速く走り、多くの荷物を運ぶ事が出来る」

「むむ……」

「それだけではない。飛行機と呼ばれる乗り物は空を飛び、海を越えて人々を遠い異国に運んだ。いながらにして世界中の情報を手に入れ、また送り届ける機械が広く普及し、誰でも利用する事が出来た」

「はあ……」

 マティアスが息を漏らす。

「進んだ文明は枚挙に暇がないが……その少女はそんな世界に生まれた」

「すごいではないか……まるで理想郷ではないか」

 マティアスはそんな感想を漏らすが、アリスは構わずに続ける。

「少女はいわゆる天才だった。知的好奇心を満たすため、世界をより深く理解しようと思った少女は、古今東西の書物を読み尽くし、脳と直結したネットの海から様々な情報を入手した」

「………」

「それに飽き足らなくなった少女は、ミクロの領域から世界全体の情報までを自らの身体にかき集めるシステムを構築し、その情報を元に未来さえ予測する事を可能にし、そのシステムを利用して高度医療用ナノマシンを発展させ、自らをほぼ不老不死とした」

「………」

「それというのも、全て少女は世界を愛していたから。ただ単に世界を愛し、より深く知りたいと思ったから」

「………」

「不老不死の技術は非公開にしていたが、別の技術は公開した。それが過ちだった」

「………」

「高性能AI、TYPE-ALICE。人よりも速く、正確に、仕事をこなすそれは、世界に瞬く間に広まった。人間のありとあらゆる仕事を、より高い精度で代替した。そして……人類を滅亡に追いやった」

「人類を……滅亡に……?」

 ナユタが声を震わせる。

「どうしてなの? その……なんとかが人間の代わりに働いてくれるなら、人間は働かなくていいし、お金や食べ物を奪い合う事もなくなるんじゃないの?」

「人間より安く、確実な仕事をする何かがいるなら、誰がわざわざ人間を雇う? 働く場所を失った人間が、どうやってお金や食べ物を得る?」

「そ、それは……」

「ほぼ全ての人類が滅んだ世界に、少女は一人取り残された。そして自らが犯した罪を償うために、時間遡行の技術を開発し、人類滅亡をなかった事にするための戦いを始める……」

「………」

「………」

 アリスが語る壮大な物語に圧倒され、ナユタとマティアスは揃って口をぽかんと開ける。

 話のスケールが大きすぎて、頭の理解が追い付かない。

「……なんて話をしたら、あなた達は本当の事だと信じる?」

 アリスがそんな風に話を締めくくる物だから、マティアスはぷっと吹き出して大笑いする。

「なんだ、作り話であったか。そうであろう。そんな摩訶不思議な世界も、人間が滅亡する未来も、あるはずないからな。わははははは」

「………」

「………」

 笑い飛ばすマティアスを余所に、ナユタは言葉を失ったままだ。

 そしてふと気が付くと、アリスが自分を一心に見つめている。

 深淵を思わせる瞳はいつもと何も変わらないように見えるが、どこか縋り付くような悲しみを湛えている。

「しかし良く出来た作り話であったな。一瞬、信じてしまいそうになったぞ。わははははは」

 マティアスは変わらず笑い飛ばしている。

 確かにこの世界の常識に照らし合わせれば、笑い飛ばすしかない荒唐無稽な作り話と言わざるを得ない。

 そう、あくまでもこの世界の常識に照らし合わせれば、なのだ。

 アリスは何のためにこんな話をしたというの?

 話に出てきた「少女」がアリス自身ではないと、一言も言ってはいないのだ。

「………」

「………」

 アリスもナユタもお互いに語る言葉を持たないまま、まるでこの世界から切り離されたように見つめ合い、身動ぎひとつ出来なかった。

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