閑話その5
空が真っ赤に燃えている。
何千年、何万年も昔から夕焼けは全てを真っ赤に染め上げ、誰が決めたでもなく、誰に教えられたでもなく、人間はその胸に切ない気持ちを募らせた。
そしてそれは何千年、何万年と変わりなく続いていくのだろう。
何千年、何万年と何も変わる事がなくなったこの世界においても。
彼は油断なく周囲を窺って人目がない事を確認すると、家から持ち出した包丁を取り出し、その切っ先を手首に突き立てる。
「………」
しかし彼は失望の嘆息を漏らす。
鋭利な切っ先は痛みさえもたらす事なく、わずかに赤い血が流れ出ただけで、それもすぐに何事もなかったかのように消えてしまう。
何度やっても同じだった。
リストカットだけではない。
崖から転落しても高層ビルから飛び降りても締め切った部屋で練炭を焚いてもガソリンを被って火を点けても自動車や電車の前に飛び出しても傷ひとつ付かなかった。
自殺さえできない世界。
自殺などという不幸は決して許さない優しい世界。
「だから……どうしろって言うんだよ!」
彼は怒りに任せて地面を殴りつける。
拳に傷が付くどころか痛みさえもない。
何度も何度も殴りつける。
それでも血も出なければ痛みもない。
「どうすれば……どうすれば……」
嗚咽が漏れ、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
昨日も一昨日もそのまたずっと昔から。
明日も明後日もそのまたずっと先の未来まで。
何一つ変わる事がない平坦で淡泊な日々。
あらゆる趣味や娯楽をやり尽くし、もはや心を振るわせる何物もないこの世界。
願えば何でも叶う代わりに、目標も生き甲斐も見出せない世界。
それは同じ一日を無限に繰り返すのと何が違うのだろう?
どこでも行けて何でもできる代わりに、刑期も釈放も恩赦も償うべき罪もない牢獄と何が違うのだろう?
「助けて欲しい?」
突然の声に、彼は弾かれたように顔を上げる。
一人の幼い少女が立っていた。
幾度も彼の目の前に現れては消える、黒い服の少女。
「君は……君の名前は? どこから来たの? 君は……君は何者なんだい?」
「………」
彼の問いに答える事もなく、少女は逆に訪ね返す。
「この世界はあなたを必要としていないけれど……あなたはこの世界を必要としているの?」
「………」
聞きようによっては相当に失礼に当たる問いを、彼は沈黙を以て受け止める。
「この世界はあなたを不幸にはしないけれど、あなたを幸せにはしてくれるの?」
不躾とも言える問いを、彼はすんなりと受け入れる。
ああ、そういう事だったのか。
息が詰まる。
不幸になる事さえ許さない、ぬるま湯に浸かるような幸せだけが当たり前に与え続けられる、退屈と停滞で構成されたこの世界で。
彼は息苦しさを感じていた。
陸に打ち上げられた魚も同じように感じるのだろうか?
翼を奪われた鳥も同じように感じるのだろうか?
水に溺れた人間も同じように感じるのだろうか?
ひとつ決定的に違うのは、死という最後の救済さえ与えられないという事だ。
「私はあなたを救いに来た」
少女は言う。
「あなたは私の救いを必要としている。だから私はあなたの前に現れた」
そして大切そうに持っていた、真っ赤なリンゴを差し出す。
「これは私があなたのために用意した、最後の救済」
「………!」
心臓がひとつ、大きく脈を打つ。
世界中の美食を口にしたはずの彼が、何の変哲もないリンゴに抗し難い魅力を感じる。
からからに喉が渇き、水を求める魚のように口をぱくぱくさせる。
「それは……僕を救ってくれるのか? この世界から僕を救ってくれるのか?」
少女は小さく頷く。
「全てを失って、全てを手に入れる、その覚悟があなたにあるのなら」
「………」
彼はしばし考え込み、そして気付く。
「僕がそれに手を伸ばしたら……僕の娘はどうなる?」
娘は彼がいなくても生きていける。
それは解っている。
それでもやはり、娘は彼をこの世界に引き留める存在だった。
「彼女は私の救済を必要としていない」
少女はきっぱりと告げる。
「だから彼女に私の姿は見えなかった」
「そうか……」
心が揺れる。
それは禁断の果実。
イブがアダムにもたらした、人を堕落へと誘う、禁じられた甘い果実。
「娘よ……」
彼は震える手を果実に伸ばす。
「パパを……お前と一緒に生きられない、弱いパパを許してくれ……!」
彼は果実を鷲掴みにすると、大きく口を開けてかじり付いた。
その瞬間、世界が暗転する。




