第四章その9
ナユタは二人の手をそっと振り解いて立ち上がる。
「ごめん。私、もう行かなくちゃ」
皇太子だったマティアスが玉座に着くのを手助けしたのはナユタだ。
もしその身に何かあったなら、その責任の一端がナユタにはないとは言い切れない。
それより何より、マティアスが困っているなら飛んでいって助けに行きたいくらいには大切に思っている。
解っている。
そうすれば最後、王宮からは離れられない。
礼儀作法もしきたりも知らないただの村娘に過ぎないナユタにとって、王宮など豪華で衣食住に困らないだけで窮屈な牢屋にも等しい。
だから……。
「やっぱり私、アルバートさんが言うようなすごい人じゃないから……」
「ナユタさん! それでいいんですか? 諦めるんですか?」
寂しげに笑うナユタを、アルバートは一喝する。
「で、でも私が行かないと……」
「人類の命運とか皇帝の事を言っているのではありません。ナユタさんの将来の事を、私は心配しているんです」
「え?」
「ナユタさんが本当にそれを望んでいるなら、それは構いません。ですがあなたの幸せはあなたが自分で決める事です。あなたの自己犠牲で人類や皇帝が救われたとしても、あなたが幸せにならないなら何の意味があるというのですか!」
「そ、それは……」
ナユタは口ごもる。
煮え切らないナユタに業を煮やしたのか、騎士の一人が手を伸ばす。
「ええい、ごちゃごちゃ話してないでさっさと来い!」
「いやっ! 放してっ!」
ナユタの腕を無遠慮に掴み、強引に連れて行こうとする。
「……この瞬間を待っていました」
ナユタの眼前を、何かが横切る。
「え?」
腕を引っ張っていた力がなくなっている。
視線を動かすと、ナユタの腕を掴んでいた騎士が向こうの壁にもたれかかって座り込んでいる。
どれほどの衝撃だったのだろう?
壁に叩き付けられた後頭部はぱっくりと割れ、辺りに大量の血をぶちまけていた。
すぐ近くで悲鳴を上げてへたり込むイレーナを見るとはなしに把握しながら、ナユタは自分の心が冷たく冴えていくのを感じていた。
「アリス……それにルイス……」
「やあナユタさん。ご機嫌いかがですか?」
延びた腕を戻しながら、ルイスはにこやかに笑う。
人が死んでいるというのに……いや、殺したばかりだというのに、まるでどこ吹く風と言わんばかりだ。
「どういうつもりだ……?」
サーストンが震える声を絞り出す。
「ナユタが地下牢にいると教えたのはお前らではないか! 騙したのか? 我々に協力しているのではなかったのか?」
「それは心外。騙してなどいない。現に私が言ったようにナユタはここにいる」
ぽつりと呟くように、アリスが言う。
「協力しているなどとあなたが勝手に勘違いしただけ」
「こ、この……!」
騎士が剣を抜いて斬りかかる。
しかしその剣が届く範囲より長くルイスの腕が延び、その手が騎士の喉輪を鷲掴みにする。
「は、放せ……! ぐっ……」
ルイスの指がゆっくり動くと、騎士の首が少しずつ、人体の構造上あり得ない角度に曲がっていく。
枯れた小枝でも折るような乾いた音を立てていとも容易く首を手折ると、すっかり弛緩した身体を無造作に放り出す。
「う、動くな……!」
その間にサーストンはナユタを羽交い締めにして首筋にナイフを押し当てる。
「指一本でも動かして見ろ! この娘の命はないと思え!」
月並みな小悪党のような、安っぽい脅迫の言葉を叫ぶサーストン。
しかしルイスは冷ややかな視線を返す。
「やれる物ならやってみればいいのではありませんか?」
「な、何?」
「マティアスのお気に入りのナユタさんに傷一つでも付けてみれば、帝国におけるあなたの立場がどのような物になるか……それを考えればあなたの脅迫に何の説得力もない事は明白です」
「お、お前らはこの娘を取り返しにきたのではないのか?」
「確かにアリスの目的は、ナユタさんをマティアスに渡さない事にあります。しかし、ナユタさんが生きていようがいまいがアリスには……」
「ルイス」
「………」
アリスに名を呼ばれ、ルイスは言葉を中断する。
やれやれとでも言うように、人ではない身のくせに、やけに人みたいな仕草で首を振った後、ルイスは手を延ばす。
瞬く間にルイスの手はナイフを握ったサーストンの手を、その上から握り締める。
「武器を捨て、抵抗の意志がない事を示しなさい。さもなければあなたを脅威と見なし、実力で排除します」
「ふ、ふざけるな! 手を放せるはずが……ぐっ!」
ナユタの耳元に、サーストンの指が軋む音と共に唾液の混じった苦悶の声が飛んでくる。
身を捩ってサーストンの腕から逃れると、ナユタは必死に訴える。
「ルイス! やめて! 私はもう安全だから!」
「警告します。武器を捨てなさい」
拘束を続けたまま、ルイスはサーストンを殴る。
ルイスの力を以てすれば、サーストンの身体は壁に叩きつけられ、一撃で命を奪うだろう。
しかしそうはしない。
理不尽な一撃は顎関節を精確に破壊し、巧みな弁舌を誇ったサーストンの口はその機能を失い、半ば開いたまま、血と唾液の混じった汚い息を吐き出すままになってしまう。
「警告します。武器を捨てなさい」
武器を捨てる事は許されず、命乞いの言葉を発する事さえ許されない。
「警告します。武器を捨てなさい」
ルイスは律儀に警告を発し、その都度、一発ずつサーストンを殴る。
「アリス! ルイスを止めて! このままじゃサーストンさんが死んじゃうわ!」
「………」
ナユタの訴えを、アリスは一瞥すらしない。
それを見て、サーストンが死ぬまで続けるつもりなんだと、ナユタは悟る。
殺すだけなら一発ですむところを、何度も何度も殴ってなぶり殺しにするつもりに違いない。
「警告します。武器を捨てなさい」
そしてまたルイスはサーストンを殴る。
その度に小さな血の飛沫がナユタの顔に飛ぶ。
「警告します。武器を捨てなさい」
無駄に長い時間が何度繰り返されただろう?
ルイスが手を離すと、サーストンの身体はぼろ雑巾のように倒れる。
彼が生き絶えたのは、助け起こして呼吸を確かめるまでもなかった。
「彼、最後まで武器を手放しませんでしたね。本当に強情な方でしたね」
ルイスは心の底から感心したように、何度もうなずく。
「酷い……どうしてこんな酷い殺し方を……」
「同情ですか? この男はあなたを連れ去ろうとした人なんですよ?」
泣き崩れるナユタに、ルイスは冷笑を浴びせかける。
「だからって……! こんなっ……! こんなっ……!」
怒りの感情ばかりが先走り、言葉が喉に支えて出てこない。
「五千七百八十三万九千六百十二人」
アリスが割って入る。
「それが現在、この世界に生きている人の数」
「………」
「遠い未来、この数字がゼロにならないために必要なら、たった三人殺す事を躊躇う理由がどこにある?」
「嘘です!」
アルバートが叫ぶ。
「三人ですむはずがありません! アリスさんが介入を続けるなら何万人……いや、何十万人の命が失われてもおかしくないはずです!」
「ご名答。しかし失われる命が五千七百八十三万九千六百十一人だとしても……生き残るのがたった一人だとしても……躊躇う理由にはならない」
「………」
「いつまでもここにいてはいけない。行こう」
「え……? あっ」
アリスは戸惑うナユタの手を引いて、牢を出て行く。
もはやアルバートを一瞥する事さえしない。
「ナユタさん! フィンテックさんを頼って下さい!」
去りゆくナユタの背中に、アルバートは声の限りに叫ぶ。
「この近くのロングヴィルという国に、フィンテックという男がいます! もしナユタさんに抗う意志があるなら、彼を訪ねて下さい! 私の頼みだと言えばきっと力を貸してくれます!」
「………」
アルバートの必死の言葉が届いたのか届かないのか、ナユタからの返事はない。
その背中が見えなくなってなお、アルバートは闇に向かって叫び続けた。




