第6話:指名依頼と静かなる潜入
【アルビオン王国・王都 / 冒険者ギルド】
ギルドマスターのヴァルガスは樫のデスクに広げられた古地図を睨みつけ、唸るように息を吐いた。
地図の中心には禍々しい髑髏の印と共に「開かずの砦」と記されている。Aランクの冒険者たちですらその名を聞いただけで尻込みする、ギルド最大の塩漬け案件だ。
「…彼女に頼んでみるか。受けてもらえるかはわからんがもう少し実力も見てみたいしな。これが解決できるようなら…」
彼の脳裏に静かなたたずまいの謎の仮面の人物が浮かぶ。口調は丁寧で理知的。そしてあの《大地の魔女》が後見についている。王家が関わるようなより繊細な問題に対応してもらうための、またとない試金石になるかもしれない。
ヴァルガスは執務室を出ると一階の喧騒を抜け、受付カウンターの責任者に声をかけた。
「近いうちに《翠玉の託宣者》と名乗る方が見えられるかもしれん。その時はすぐに私に知らせろ。私が不在なら必ず執務室でお待ちいただくように。決して粗相のないようにな」
「はっ、承知いたしました」
その指示は他の職員たちにも静かに伝達された。ギルドマスターが直々に指名を検討するほどの相手。職員たちの間でその正体不明の英雄への強い興味が、静かにしかし確実に広がっていた。
数日後。エリアーヌは少しだけ憂鬱な気分でギルドの扉をくぐった。
アカデミーではまたしてもマクシミリアン教授に「非科学的な妄想」とレポートを突き返されたばかりだ。ここだけが自分の知識が正当な「結果」として評価される唯一の場所だった。
彼女は他の冒険者たちに混じり静かに受付の列に並ぶ。やがて順番が来てカウンターの向こうの受付嬢に、魔法で変えた声で告げた。
「《大地の魔女》より、ギルドマスターから話があると伺いました」
その言葉を聞いた瞬間、受付嬢の目の色が変わった。プロフェッショナルな笑顔は崩さないまま、しかしその瞳の奥に隠しきれない好奇心と緊張が宿る。
「あ…《翠玉の託宣者》さまでいらっしゃいますね。ようこそおいでくださいました。マスターがお待ちです。どうぞこちらへ」
(《翠玉の託宣者》…ってこの大げさで恥ずかしい二つ名、もう完全に定着してしまっているの!?)
エリアーヌは仮面の下で冷や汗をだらだらと流しながら、平静を装って案内についていくのだった。
重厚な執務室でエリアーヌはヴァルガスから「開かずの砦」の討伐依頼を受けた。彼女の目が資料に記された『旧帝国時代の警備システム』という一文に輝いたのを、老獪なギルドマスターは見逃さなかった。
(なるほど…金や名声ではなく知的好奇心で動くタイプか。面白い)
「…面白い『研究対象』ですね。お受けします」
【アルビオン王国・開かずの砦 付近】
その夜、エリアーヌはギルドが手配した馬車に乗り砦の近くの森へと向かっていた。砦の内部を制圧した後、後処理部隊が突入するための合図を送る手筈だ。
森の中の待機場所にはギルドから派遣された案内兼連絡役のベテラン冒険者ゴードンと、その後処理部隊の若い隊員たちが焚き火を囲んでいた。
エリアーヌが馬車から降り立つと、ゴードンは値踏みするような目で彼女を一瞥した。
(…これが《翠玉の託宣者》か。ローブで体格は分からんが漂う雰囲気はまるで学者だな。本当にあの“沼”を一人で浄化したのか…?)
「《翠玉の託宣者》殿だな。俺はゴードン。あんたが合図を送るまでここで待機させてもらう。…まあ無理はするなよ。あの砦は俺たちみてぇな歴戦のパーティでも歯が立たなかった本物の化け物だ」
その言葉には気遣いと同時に「本当に大丈夫なのか?」というあからさまな疑念が滲んでいた。若い隊員たちも不安げな顔で顔を見合わせている。
「…ご忠告、感謝します」
エリアーヌは短く応えると彼らに背を向け、音もなく砦の闇へと消えていった。
残されたゴードンは焚き火に薪をくべながら忌々しげに呟く。
「…ちっ、マスターも人が悪い。あんな線の細そうな奴一人に行かせるとはな。こりゃ夜明けまで待って、結局何の音沙汰もなしってパターンか…」
エリアーヌは砦の闇に溶け込むように進む。
彼女は全身の魔力を活性化させ五感を極限まで鋭敏化させていた。風の流れ、土の匂い、遠くで虫の羽ばたく音までその全てが掌を指すように分かる。そして目に見えない警備結界の網が魔力の流れとして、彼女の意識に明確に映し出されていた。
(…美しい。教科書に書いてあることなんてやっぱり全部嘘っぱち。本物に触れるのは最高だわ…!)
彼女はまるで難解なパズルを解く子供のように楽しげに、結界の網を一度も触れることなくすり抜けていく。
分厚い石壁に手を触れ「解錠リリース」の囁きと共に隠し通路を開く。
通路の先には巡回中の兵士が二人。エリアーヌは息を殺し肉体を強化。床を蹴る音もなく影となってその背後に回り込むと、二人の首筋に的確な手刀を叩き込み声もなく昏倒させた。
さらに奥へと進む。通路の角、物陰。鋭敏化した聴覚が潜む敵の呼吸音を捉える。
彼女は壁を蹴って三角に跳び待ち伏せていた兵士の頭上を越え、その背後に着地する。兵士が驚愕に目を見開く暇もなくその意識は闇に落ちた。
誰にも警報を鳴らさせることなくエリアーヌは砦の心臓部へと近づいていく。
だが司令室と思われる重厚な扉の前に立った瞬間、彼女はピタリと動きを止めた。
鋭敏化した聴覚が扉の向こうの異常を捉えていた。
整然とした足音。交わされる短い命令。鉄と油の匂い。
そして微かに聞こえる聞き慣れない言語――ガルバラン帝国の訛り。
エリアーヌの仮面の下の目が鋭く細められた。
「…話が違う。これはただの盗賊じゃない。もっと厄介な――軍隊ね」
闇の向こう側で一体何が待ち受けているのか。
エリアーヌは息を殺し、静かにしかし確実な一歩を司令室の扉へと踏み出した。




