第4話:二つの伝説
【アルビオン王国・嘆きの沼】
『嘆きの沼』の上空。
エリアーヌが投擲したガラス瓶は美しい放物線を描き、寸分違わず汚泥のゴーレムの喉の奥へと吸い込まれていく。
ガラスが砕ける小さな音。
次の瞬間、世界から音が消えた。
ゴーレムの体内から声にならない絶叫と共に、眩いほどの翠色の光が溢れ出したのだ。それはこの世のものとは思えないほど神々しく、そして慈愛に満ちた光だった。
光はゴーレムの巨体を内部から浄化していく。苦痛に歪んでいたその姿は安らかなものへと変わっていく。断末魔の叫びを上げる間もなく、巨体は光の粒子となり夜空へと溶けるように霧散していった。
そして沼を満たしていた毒々しい瘴気もまた、跡形もなく消え去っていく。
残されたのは静寂だけだった。
水面は鏡のように静まり月明かりを穏やかに反射している。腐敗臭は消え、代わりに湿った土と草の匂いが心地よく鼻をくすぐった。朝日が昇り始め、浄化された沼は幻想的な朝靄に包まれて輝いていた。
静寂が戻った沼地の中央、一本の巨木の上にエリアーヌは静かに佇んでいた。仮面の下で彼女は小さく安堵のため息をつく。
「これでまたしばらくは昼の時間を守れるかしら」
仮面の位置を直しながら彼女は呟いた。
《翠玉の託宣者》の名は、これをもって裏社会に確固たる伝説として刻まれるだろう。
彼女は何事もなかったかのように、王都への帰路につく。
【ガルバラン帝国・帝都ヴァレンティウム】
その数日後。遥か南、ガルバラン帝国の帝都。
金と大理石で飾り立てられた、しかし息が詰まるほどに空気が澱んだ皇宮の一室。
第四皇女セレスティナは、窓の外をただ無表情に見つめていた。彼女はまるで精巧に作られた石像のように気配を消している。それがこの腐敗した宮廷で彼女が生き抜くために身につけた処世術だった。
部屋の中では三人の兄たちが後継の座を巡って、いつものように下らない口論を繰り広げている。
「父上の覚えがめでたいのはこの私だ!」
「何を言うか! 貴様の軍事費なぞ全て己の懐に入っておるではないか!」
「それはお互い様であろう!」
(…また始まった。この金色の鳥籠の中では、毎日がこの繰り返し)
セレスティナは彼らの声などもう耳には入っていなかった。
そこへ宰相がやってきて、一枚の命令書を彼女に手渡す。
「セレスティナ皇女殿下。陛下より勅命にございます。北の辺境地帯にて不穏な動きあり。至急現地へ赴きこれを鎮圧せよ、とのことにございます」
それは明らかに彼女を中央から遠ざけるための厄介払いの命令だった。
しかしセレスティナの無表情だった仮面の下に、ほんの僅かに安堵のような光が宿る。
(…辺境へ。ええ、ええ。喜んで参りましょう)
この息の詰まる鳥籠から出られるのなら。
彼女は静かに一礼し、その厄介な命令書を受け取った。
同じ頃、帝都の活気あふれる市場を見下ろす、なじみの店のテラス。
第七皇子リオンは、重苦しい皇宮から抜け出し、ようやく心の底から息を吸い込んでいた。
彼の前には、帝国中の密偵から集められた最新の報告書が広げられている。
「…行くぞダリウス。空気が腐る」
彼の私室付きの護衛――ダリウスは、影のように控えたまま、無言で頷いた。
リオンは大陸地図を広げ駒を置きながら、まるで澱んだ宮廷での出来事を忘れるかのように楽しげに呟いた。
「…ダリウス、聞いたか?実に面白い噂が二つ大陸を駆け巡っている」
傍らに控える巨漢の護衛が無表情のまま答える。
「はっ。北のアルビオン王国にてギルドの最高難度依頼を一夜にして解決したという、正体不明の《翠玉の託宣者》。そして南の各地にて天変地異を引き起こしているという、神か悪魔か定かではない《沈黙の厄災》…でございますな」
報告を読み上げたリオンは、地図上のある一点を指でなぞりながら愉快そうに口の端を上げた。
「そうだ。片や秩序の守護者。片や混沌の権化。まるで光と影の伝説が同時に始まったかのようだ。あの腐りきった宮廷で兄たちの醜い権力争いを見ているより、よほど胸が躍る」
彼の指は地図に描かれた古代の交易路――通称『月光の道』を正確に辿っていた。
「特にこの《沈黙の厄災》とやらは実に興味深い。その出現地点が見事にこの『月光の道』の経路上に集中している。まるで何かを辿って旅でもしているかのようだ。善悪の基準がまるでないところを見ると、ひどく無邪気でそして強力な力を持った子供…といったところか」
彼は立ち上がり、活気あふれる街並みを見下ろす。
「決めた。どうせ帝都にいても息が詰まるだけだ。少し散歩に出るとしよう」
彼は、旅芸人一座に扮して諸国を旅している、という噂を流している、自由気ままな弟を思い浮かべた。
「あの弟のように、私も少し、羽を伸ばさせてもらうさ。兄上たちにはどうせ私は『物見遊山が好きな、ただの道楽皇子』だと思われている。その方が何かと都合がいいからな」
「リオン様…?」
「この二つの伝説の正体をこの目で確かめに行くのさ。特にこの『月光の道』を辿れば、いつか必ず《沈黙の厄災》に会えるはずだ」
彼の瞳は難解なパズルを解き明かそうとする子供のように、好奇心と冒険心にきらきらと輝いていた。
その「散歩」がやがて彼の運命を、そして大陸全土を揺るがす二つの伝説を一つの渦へと巻き込んでいくことになる。
皇子の気まぐれな旅立ちを、まだ誰も知らなかった。




