第2話:翠玉の託宣者と、一夜の花畑
【アルビオン王国・王都 / 冒険者ギルド】
王都の夜は表通りの賑わいとは裏腹に、裏通りに入れば深い影が落ちる。
冒険者ギルド《暁の地平線》の支部もその例に漏れなかった。
屈強な冒険者たちが酒を酌み交わす一階の酒場を抜け、エリアーヌは特別な許可証を提示して最上階へと向かう。そこはギルドマスターと高ランクの依頼人のみが立ち入ることを許された静寂の空間だ。
重厚な樫の扉を音もなく開けると、革張りのソファに深く身を沈めたギルドマスターの厳つい老人が顔を上げた。その顔には歴戦の強者らしからぬ深い疲労と焦りの色が浮かんでいる。
「…来たか」
その声には期待と値踏みするような視線が混じっていた。
エリアーヌは深緑色のフード付きローブの奥から静かに頷いた。翠玉が嵌め込まれた銀の仮面が暖炉の光を鈍く反射する。
「話は私の推薦人である《大地の魔女》から伺っています。ギルドマスター自らご指名とのこと」
魔法で変えられた中性的で響きのある声。それは昼間の彼女の快活さとは似ても似つかない冷たい印象を与えた。
「うむ…。単刀直入に言おう。《大地の魔女》殿は『我が弟子ならば解決できる』と豪語しておられたがな。正直半信半疑だ。貴殿のようなギルドに登録したばかりの新参に何ができると」
ギルドマスターはテーブルに置かれた依頼書を忌々しげに指で叩いた。
「『嘆きの沼』。Bランクの精鋭パーティが三つ立て続けに精神汚染を受けて敗走した。もはや誰も近寄らん。だが王都の水源に繋がっている以上放置はできん。…これは貴殿の力を試すまたとない機会でもある。どうだね《翠玉の託宣者》殿。この難題、受けてみるかね?」
挑発的な言葉。その裏にある他に頼る手立てがないという彼の本音をエリアーヌは見抜いていた。
「お受けしましょう」
静かなしかし有無を言わせぬ響きを持った声で彼女は答えた。
「ほう…。威勢だけは良いようだな。して報酬は?」
「これで」
エリアーヌが差し出した羊皮紙を見てギルドマスターは目を見開いた。
(…なんだこのリストは。ほとんどが失われたはずの古代浄化術式に必要とされた素材ばかりではないか! こいつ一体何者だ…?)
彼の内心の動揺をよそに仮面の人物は静かに言葉を続ける。
「必要なものです」
「…よかろう。不足分は後日推薦人である《大地の魔女》殿に補充させてもらう。それでよろしいな?」
「ええ結構です」
その堂々とした態度にギルドマスターはしばらく黙り込んだ。ソファからゆっくりと立ち上がると彼は自らの首にかけていたギルドの紋章が刻まれた古い銀のペンダントを外した。
「…これを持って行け」
「これは?」
「ギルドマスターの身分章だ。万が一騎士団などと揉め事になった時に見せろ。多少の融通は利くはずだ。…勘違いするなよ。あくまで《大地の魔女》殿の顔を立てるだけだ。そしてこれは先行投資でもある」
ギルドマスターはニヤリと口の端を上げた。その目には先ほどの疑念ではなく目の前の謎の人物への強い興味とほんの少しの期待が宿っていた。
「首尾よく依頼を達成できたら改めて礼はさせてもらう。…期待しているぞ《翠玉の託宣者》」
【???・ザルム砂漠】
―――その頃、遥か南の不毛の砂漠地帯。
ある奇跡が起ころうとしていた。
乾ききったどこまでも続く砂の大地。
そこに一体の、人間と見分けのつかないほど精巧な少女の姿をした何かが、ぽつんと立っていた。
灰色の旅人のフードを目深に被っている。
「うーん、砂漠って本で読むとロマンチックだけど。実際来てみると茶色くて暑いだけで、特に楽しいものじゃなかったなぁ…」
ぽつりと少女の澄んだ独り言がこぼれる。
「そうだ! お花畑作ってみようかな。色とりどりのお花が砂漠に咲いてたら綺麗だよね、きっと!」
天真爛漫な思いつき。
少女が楽しげにハミングを始めると。
彼女の足元から目には見えない、しかし途方もない魔法の波が同心円状に広がっていった。
乾ききった大地が潤い、砂の中から色とりどりの花の芽が一斉に顔を出す。
それは瞬く間に成長しほんの数分で、地平線の彼方まで続く巨大でありえないほど美しい花畑を現出させた。
むせ返るような花の香りが熱風に乗って運ばれる。
「わー、すごい綺麗! 大成功!」
少女は満足げに頷くと、どこからか現れた砂漠キツネの子供と、しばらく無邪気に戯れた。
そして何事もなかったかのように、その場からふっと姿を消した。
後にこの花畑が「一夜の奇跡」として旅人たちを驚かせ、生態系調査のためにアルビオン王国までもが大調査団を派遣することになるなど、まだ誰も知る由もなかった。
【アルビオン王国・嘆きの沼】
王都の南に広がる『嘆きの沼』。月明かりだけが頼りのその場所は死んだように静まり返っていた。
エリアーヌは音もなくしなやかな動きでぬかるんだ地面を避けて木の枝から枝へと飛び移る。
彼女は立ち止まり目を閉じた。
肉体を強化し五感を極限まで鋭敏化させる。
この空間に満ちる異常なエネルギーの流れを感じ取る。
(…酷い。瘴気の濃度が異常に高い。でもこれは魔獣が発するような生物的な負の魔力とは質が違う…。もっと無機質で機械的なエネルギーの暴走…。まるで巨大な機械が熱暴走を起こしているかのような不協和音…)
エリアーヌは眉をひそめた。
(まさかこの沼の底にも眠っているというの? 1000年前の古代の環境浄化装置の成れの果てが…!)
彼女は強化された視力で魔力の流れを追う。
その中心はどこか。最も強く淀んだ異常なエネルギーを発している場所は――。
エリアーヌは仮面の奥の瞳をカッと見開いた。
「…いた」
沼地の中央、ひときわ濃い瘴気を放つ場所。
そこに小山のような黒い影がゆっくりと蠢いている。
それは一見巨大な魔獣のように見える。
だがエリアーヌには分かっていた。
あれは生物ではない。
暴走した古代の魔道具が周囲の泥やヘドロを取り込み、擬似的な身体を形成した「汚泥のゴーレム」なのだと。
この沼の異変の発生源。
そして幾多の冒険者をその精神汚染能力で絶望に叩き込んだ、嘆きの主。
彼女は静かに息を吸い決意と共にその影に向かって枝を蹴った




