第16話:姫の献身と、熱狂の凱旋
【演習地・姫の天幕】
セシリア姫に支えられエリアーヌはまるで夢の中を歩いているかのように、ふらふらとした足取りで姫専用の豪奢な天幕へと運び込まれた。天幕の中に満ちた上質なお香の香りが、疲弊した脳を優しく刺激する。
「ここはわたくし一人で大丈夫ですわ。貴女たちはお湯と綺麗なタオル、それと何か温かい飲み物を用意してちょうだい。それからわたくしが許すまで、誰もこの天幕に近づけてはなりませんよ」
セシリア姫は心配そうにする侍女たちに有無を言わせぬ、しかしどこか弾んだ声で命じた。
バタバタと侍女たちが出ていくと天幕の中は姫と意識が朦朧としたエリアーヌだけの、甘美な密室と化した。
(ああ…《翠玉の託宣者》様が私の天幕に…! しかもこんなにお疲れで無防備な姿を…!)
姫は内心で歓喜の声を上げた。
(これはもうわたくしが!完っ璧に!介助して差し上げるしかございませんわ!)
姫はベッドにエリアーヌをそっと横たわらせた。そうするとエリアーヌは本当に限界だったのだろう、すぐに気持ちよさそうに寝息を立てた。それを認めると姫は戦いで汚れた深緑色のローブを丁寧に脱がせ始めた。
そしてその手が銀色の仮面に触れたその時、姫の指がぴたりと止まった。
(こ、これか外れれば《翠玉の託宣者》様の素顔が…!)
ゴクリと喉が鳴る。心臓が早鐘のように打ち始めた。
(い、いえいけませんわセシリア! これは信頼の証としてわたくしにその身を委ねてくださった方への裏切り行為…! でも少しだけ…ほんの少しだけなら神様もお許しに…)
彼女の指が震えながらゆっくりと仮面の縁にかかろうとした、その瞬間。
「…んっ…」
ベッドの上のエリアーヌがかすかに身じろぎをし吐息を漏らした。
その無意識の抵抗に姫は「はっ!」と我に返り慌てて仮面から手を離す。自分の邪な考えに頬がカッと熱くなった。
「…失礼いたしましたわ。わたくしなんて浅ましいことを…」
姫は眠るエリアーヌに向かって深く頭を下げた。
「お誓いします。貴女が自らの意志でわたくしにその素顔を見せてくださるその時まで。決してこの仮面に触れたりはいたしません」
彼女は自らの騎士道にも似た誓いを心に立てたのだった。
やがて侍女たちが運んできたお湯で姫はタオルを丁寧に絞る。そしてそれはもう慈愛に満ちた、そしてどこか恍惚とした表情でエリアーヌの手や足、汗で汚れた首筋から順番にそっと拭き清めていった。
ローブの下から現れた意外なほど細く白い身体。激しい戦いの痕である小さな擦り傷。
(こんなに華奢な身体で、あれほどの戦いを…)
姫はその痛々しい痕にきゅっと胸を痛めた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
エリアーヌは柔らかな寝台の心地よさの中でゆっくりと意識を浮上させた。
(…私、どうしたんだっけ…)
そうだ、祝勝会で騎士団の人たちに引き回されてそれで限界で…。
そこまで思い出した瞬間彼女の思考は昨夜の断片的な記憶を再生し始めた。
セシリア姫に天幕へ運ばれて…温かいタオルで身体を拭かれて…抵抗もできずされるがままに…。
「―――っ!!」
エリアーヌは仮面の下で顔を真っ赤にした。羞恥で今すぐベッドの上で頭を抱えて転げまわりたい衝動に駆られる。
(な、なんてことを…! 一国の姫君にあんな…あんなことまでさせてしまったなんて…! もうどんな顔をして会えばいいの…!?)
彼女が一人ベッドの上で悶絶しているとすぐ隣から、すぅすぅと可愛らしい寝息が聞こえてくることに気づいた。
そっと横を見るとそこには椅子に座ったままベッドに突っ伏すような形で、セシリア姫が安らかに眠っていた。どうやら一晩中つきっきりでいてくれていたらしい。
その健気な姿にエリアーヌの胸にじんわりと温かいものが込み上げてきた。
「…ん…」
その時姫が身じろぎをしてゆっくりと顔を上げた。眠たげな目をこすりエリアーヌが起きていることに気づくと、ぱっと花が咲くように微笑んだ。
「ああ! 《翠玉の託宣者》様! もうお加減はよろしいのですか?」
「あ…はい。お、おかげさまで…。その昨晩は大変ご迷惑を…」
しどろもどろになりながら礼を言うエリアーヌに姫はぶんぶんと首を横に振った。
「とんでもございません! とても光栄でしたわ!」
そして彼女は悪びれる様子もなくにこやかに続ける。
「ええ、昨晩はとてもお疲れのようでしたのでわたくしが隅々までしっかりと身を清めさせていただきましたのよ! ふふ、それにしても驚きましたわ。あれほど鬼神のようなご活躍をされるのにそのお身体は、驚くほどスラリとしていて美しくて…」
「~~~っ!!」
追い打ちをかけるような姫の言葉にエリアーヌは、もはや羞恥で爆発しそうだった。
「ささ、きっとお腹も空いたでしょう。朝食の準備も進んでいる頃だと思いますのでご案内いたしますわ!」
セシリア姫はすっかり元気になった「推し」の姿にそれはもう上機嫌だった。
【王都への帰路】
二人が天幕の外に出るとそこにはしゅんとした顔の騎士団長が所在なげに立っていた。
「《翠玉の託宣者》殿…! 昨夜はその誠に申し訳なかった!」
彼はエリアーヌの前に深々と頭を下げた。その誠実な謝罪にエリアーヌもこれ以上彼を責める気にはなれなかった。
「…お気になさらず。私も自分の限界を把握していなかったのですから」
そのやり取りを見てセシリア姫がポンと手を打った。
「そうですわ! 団長! 《翠玉の託宣者》様の武勇伝、もっともっとたくさんの方に知らせるべきですわ! 王都に戻ったらお父様に頼んで吟遊詩人に詩を歌わせましょう!」
「おお! それは良いお考えですな、姫様!」
「そっそれは!おやめください!」
エリアーヌの心からの叫びも虚しく二人の「ファン」は、彼女の伝説を広める計画で大いに盛り上がり始めた。
一行はその日のうちに王都への帰路についた。
彼らが成し遂げた「古代遺跡の鎮圧」と「帝国のテロ計画阻止」の報は先行した伝令によって、瞬く間に街道沿いの町や村へと広まっていく。
最初の町に差し掛かった時エリアーヌは馬車の窓から信じられない光景を目にした。街道の両脇に大勢の町民が集まりこちらに手を振っているのだ。
「《翠玉の託宣者》様が通られるぞー!」
「ありがとう! あんたたちのおかげで川の水が戻ったんだ!」
「翠玉さまーっ!!」
熱狂的な歓声が馬車の中にまで響いてくる。
(え! え! ど、どうしたらいいの? 私? 私のことよね…?)
エリアーヌは仮面の下で完全にパニックに陥っていた。
(て…手を上げてみようかな…?)
おそるおそる窓から少しだけ手を出す。
その瞬間、外の歓声が爆発したかのようにさらに大きくなった。
「うわあああぁぁぁああ!」
「び、びっくぅ!」
エリアーヌは驚いて思わず手を引っ込める。
(う、うわぁ…。手を振った方がいいのよね、きっと…)
彼女は意を決して再び窓から手を出し、ぎこちなくひらひらと振ってみせた。
「わああぁぁぁあああ! 翠玉さまが応えてくださったぞーっ!!」
「は、は、はは…」
引きつった笑みが仮面の下で凍りつく。
(仮面があって本当に本当によかった…!)
そんな彼女の受難は王都に近づくにつれてさらにエスカレートしていった。
やがて王都の壮麗な門が見えてくる。
だがその光景にエリアーヌは息を呑んだ。
「…う…うわぁ…」
門の前には彼らの帰還を一目見ようと、びっしりと地平線の彼方まで続くかのようなおびただしい数の民衆が集まっていたのだ。
その熱狂を前に馬車を降りた騎士団長とセシリア姫はそれはもうご満悦だった。
「ささ! 《翠玉の託宣者》殿! 皆貴殿を一目見ようと集まっておりますぞ!」
団長はそう言うといつの間にか用意されていたオープンタイプの馬車を指差した。その後ろには民衆によく見えるよう一段高くなった座席が設えられている。
セシリア姫も興奮した様子で手を叩いた。
「そうですわ! 民たちにもこの慎ましくも素晴らしく美しい《翠玉の託宣者》様のお姿を、よっく見ていただかなくては!」
(いやいやいや無理ですって!)
エリアーヌは後ずさろうとするがすっかり彼女のファンと化した二人に逃げ場はなかった。
「だ、団長! 駄目だってそんな高い高いみたいにしないでっ!!」
エリアーヌはほとんど団長に抱え上げられるようにして、その「晒し台」もとい特別席へと乗せられてしまう。
「さあ手を振って! 笑顔で!」
「翠玉様もっとこちらへ!」
(え、え、手を振れって? 笑って笑ってって…言われても!)
彼女はもはや抵抗を諦めた。
「は…はははは…」
引きつった笑顔のまままるで操り人形のように手を振る。
(もう好きにしてください…)
(…どのような話が伝わっているのでしょうか。とても気になるのですけど……)
王都の民衆の割れんばかりの歓声の中。
エリアーヌはこれから自分を待ち受けるであろうさらなる重圧と、そして自分の正体が決して暴かれてはならないという新たな決意を固めるのだった。




