第10話:疲れ果てた英雄と、老婆の優しさ
【アルビオン王国・王都】
王妃イザベラとの会談を終えたエリアーヌは、もはや抜け殻のようだった。
どうやって庭園を退出したのか侍従にどこまで送られたのか、記憶は曖昧だった。気づけば彼女は王宮からギルドへ向かう、豪奢な紋章入りの馬車の中に一人で座っていた。御者は先ほどまで王妃の影のように控えていた、あの侍女だった。そのことに気づいた時エリアーヌは、自分がいまだ王妃の監視下にあることを悟った。
(…友誼を結びたい?)
王妃の言葉が頭の中で何度も反響する。
自分の価値を認め自由を保障し、対等な協力者として手を差し伸べてきたこの国で最も権力を持つ女性。アカデミーの教授たちとは何もかもが違いすぎた。
嬉しくないと言えば嘘になる。だがそれ以上にあまりにも大きな存在に捕捉されてしまったという、漠然とした恐怖が心を支配していた。
(…もう引き返せないところまで来てしまったんだ)
エリアーヌは窓の外を流れる王都の景色を、ぼんやりと眺めていた。
ギルドに到着するとヴァルガスが鬼の首でも取ったかのような顔で待ち構えていた。
「おお《翠玉の託宣者》殿! お戻りか! 王家の方々とはいかがであったかな?」
興味津々といった様子のギルドマスターに、今日のエリアーヌはいつものように丁寧に応対する気力など残っていなかった。
「…別に。普通でした」
「なっ…ふ、普通とはまた大きく出たな…」
ヴァルガスの狼狽ぶりにも構わずエリアーヌは報告書を無造作にテーブルに置く。
「砦の件はこれで完了です。報酬はギルドへの寄付という形で結構ですので。ではこれで」
さっさと帰ろうとするエリアーヌの肩を、ヴァルガスは慌てて掴んだ。
「ま、待て待て! そうつれないことを言うな。今日は貴殿の快挙と王家からの直々の依頼という二重の祝い事だ! 俺が奢る! 王都で一番美味いと評判の店で晩飯と洒落込もうじゃないか!」
「…結構です。疲れているので」
「そう言うな! 英雄には休息と美味い飯と上等な酒が必要不可欠と決まっとるんだ!」
(疲れてるんだからほっといてほしいんですけど…!)
内心で悪態をつきながらもこの頑固な老人が一度言い出したら聞かないことを、エリアーヌは知っていた。
半ば引きずられるようにして彼女はヴァルガスと共に、夜の王都の喧騒へと連れ出されていく。
その背中を見送った受付嬢が隣の同僚にこっそりと囁いた。
「ねぇ見た? 今日の《翠玉の託宣者》様。マスターにあんな態度取れるなんて、なんか…かっこいいよねー!」
「うんうん! それにマスターもさ、最近《翠玉の託宣者》様の報告があった後とか明らかに機嫌が違うし」
「活力あーっぷ、って感じ? あはは!」
「私もあんな風にミステリアスで仕事ができる人と、一緒にお仕事してみたいなー」
「えーでもあの人、雰囲気的に女の人じゃない?」
「いいじゃない! かっこいいんだから!」
彼女たちのガールズトークは英雄の新たな伝説の一ページを華やかに彩っていた。
結局食事会はヴァルガスが一方的に上機嫌で喋り、エリアーヌは相槌を打つ気力もなくただ黙々と高級そうなステーキを口に運ぶだけで終わった。
ようやく解放され薬草店の裏口にたどり着いた頃には、もう月が天高く昇っていた。
自室の扉を開けエリアーヌは仮面とローブを脱ぎ捨てると、ベッドに倒れ込んだ。泥のように重い疲労が全身を支配する。
国王、王妃、セシリア姫、そしてギルドマスター。
今日一日で出会ったあまりにも濃すぎる人々の顔が、次々と脳裏をよぎる。
(もう無理…考えたくない…)
彼女が意識を手放しかけたその時、部屋に置かれた遠話魔法具がぽうっと柔らかな光を灯した。
『…おかえり、エリアーヌ』
祖母《大地の魔女》の穏やかで優しい声だった。
「…おばあ様…」
その声を聞いた瞬間、一日中張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。エリアーヌの目から堰を切ったように涙が溢れ出す。
「もうやだ…! 怖いよぅ…! 王妃様には全部バレてるみたいだし、国王様はいきなり来るし、ギルドマスターはしつこいし…! 私もう《翠玉の託宣者》なんてやめたい…!」
しゃくり上げながら子供のように泣きじゃくる孫娘に、祖母は静かに耳を傾けていた。
一通り泣き終えエリアーヌが鼻をすすり始めると、祖母はゆっくりと口を開いた。
『…そうかい。大変だったねぇ。…やめてもいいんだよ』
「…え?」
予想外の言葉にエリアーヌは涙で濡れた顔を上げた。
『お前が辛くて苦しくて、もう嫌だというのなら全部放り出してしまえばいい。仮面も名前も全部捨てて、ただの薬草好きの女の子に戻ればいいのさ。お前の人生はお前のものなのだからね』
その言葉は何よりも優しくエリアーヌの心を包み込んだ。
そうだ、自分にはやめる自由だってあるんだ。
そう思った瞬間、不思議とあれほど重かった心が少しだけ軽くなった気がした。
『…だがねエリアーヌ。涙でぐしゃぐしゃのまま寝ると明日目が腫れて大変なことになるよ。それに汗でべとべとのままベッドに入るなんて、女の子として感心しないねぇ』
先ほどまでの優しい声とは打って変わって少しだけ厳しい、しかし愛情に満ちた声が続く。
『さあまずはお風呂に入って体を綺麗にしておいで。温かいミルクでも用意して待っててあげるから。話はそれからゆっくり聞こうじゃないか』
「…はい、おばあ様」
エリアーヌは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、それでも久しぶりに心の底から微笑んだ。
どんなに凄い英雄になってもどんなに偉い人たちに会っても、自分にはこうして甘えさせてくれるたった一人の家族がいる。
その事実が今の彼女にとっては、何よりの救いだった。




