第9話:王妃の庭園
【アルビオン王国・王宮西庭園】
国王との会談を終え侍従に案内されるまま、エリアーヌは王宮の西回廊を歩いていた。
大理石の床に自分のブーツの音だけがやけに大きく響く。先ほどの国王とのやり取りでかいた汗がローブの下でじっとりと肌に張り付き、不快感がひどい。
(気持ち悪い…早く帰って着替えたい…)
そんなささやかな願いも虚しく、彼女が向かう先はこの国で最も美しいと謳われる「王妃の庭園」。そしてそこで待つのはこの国で最も怜悧だと噂される人物、王妃イザベラその人だ。
ガラスの扉の向こうには陽光を浴びて色とりどりの花々が咲き乱れる、息をのむほど美しい庭園が広がっていた。中央には白いパラソルの下に優雅なティーセットが用意されている。エリアーヌは一つ深く息を吸い込んだ。まるで決戦の場に赴く騎士のような心境だった。
パラソルの下には既に一人の女性が腰かけていた。プラチナブロンドの髪、磨き抜かれた宝石のような紫の瞳。完璧な美貌と全身から放たれる気品はもはや人間というよりも、精巧に作られた芸術品のようだった。
その後ろにはまるで影のように一人の侍女が控えている。表情一つ変えず、しかしその佇まいからはそこらの騎士など足元にも及ばないほどの練度が感じられた。
「ようこそ《翠玉の託宣者》。お待ちしておりましたわ」
王妃イザベラはエリアーヌが近づくのを待って静かに微笑んだ。その声は絹のように滑らかだがどこか温度を感じさせない。
「…お招きいただき光栄に存じます。王妃殿下」
エリアーヌは仮面の下で表情を完璧に殺し、教科書通りの完璧な礼を返す。
「まあそんなに固くならないで。どうぞお座りになって」
王妃は向かいの椅子を勧める。エリアーヌが恐る恐る腰を下ろすと、影の侍女が音もなく完璧な所作で二人分の紅茶を注ぎ始めた。
しばらく沈黙が続いた。先に口を開いたのは王妃だった。
「…感心いたしましたのよ、貴方の仕事には。特にあの『開かずの砦』から回収されたという帝国の暗号通信機。我が国の最高の技官たちですら解読できなかったそれを、貴方はいとも容易く解読したレポートを添えてギルドに提出されたとか」
ドクンと心臓が大きく鳴った。あのレポートのことまで把握しているというのか。
「そのレポートの文体、論理の組み立て方…。どこかで見たことがあると思ったらとてもよく似た論文を、以前私の『調査部』がアカデミーから取り寄せておりましたわ。ええ確か…『霊素の枯渇理論への反証と、エーテル存在の蓋然性について』という、非常に挑戦的でそして興味深い論文でした」
王妃はティーカップを置くとテーブルに身を乗り出すようにして、エリアーヌの仮面を覗き込んだ。その紫の瞳が射るように鋭く光る。
「ねえ少しその仮面を外してお顔を見せてはいただけないかしら? その下にはきっと素晴らしい才能と、そしてその才能に見合わぬ若さゆえのたくさんの苦悩を隠しているのではないかしら? 例えば…そうね。古臭い権威に縛られた退屈な学び舎での、理不尽な扱いとか」
完全に見抜かれている。
エリアーヌは言葉を返すことができなかった。この怜悧な王妃は自らの情報網を駆使して全ての状況証拠を繋ぎ合わせ、自分の正体にほぼ確信を持ってたどり着いているのだ。
王妃は動揺するエリアーヌを見て満足げに微笑むと、再び優雅に背を伸ばした。
「心配なさらないで。貴方の正体を暴こうなどという無粋な真似はいたしません。貴方がその仮面を必要とするのなら、それを尊重するのが礼儀というものでしょう」
彼女の言葉はエリアーヌの予想とは全く違うものだった。
「わたくしが望むのは貴方を王家の駒として縛り付けることではありません。そのようなことをすれば貴方という類稀なる才能の輝きは、たちまち色褪せてしまうでしょうから」
王妃は庭園の最も美しい深紅の薔薇を一輪指差した。
「見てごらんなさい。あの薔薇は柵に囲まれているから美しいのではありません。自由に天に向かって伸びやかに咲いているからこそ美しいのです。才能もそれと同じこと」
彼女は紫の瞳で真っ直ぐにエリアーヌの仮面を見据えた。
「わたくしは貴方と友誼を結びたい。貴方が自由に研究し自由に活動し、その才能を存分に発揮できる環境を国として保障したいのです。その上でもし国が真の危機に瀕した時…友人として力を貸してはいただけませんか?」
それは支配ではなく対等な協力者としての申し出。
エリアーヌがアカデミーで渇望していた、自分の価値を正しく認め尊重してくれる本物の「理解者」がこんな場所にいた。
「…なぜ、そこまで」
ようやくエリアーヌは声を絞り出した。
王妃は初めて心からの柔らかな笑みを浮かべた。
「決まっていますでしょう? わたくしはこのアルビオンという国を、そしてそこに生きる民を心から愛しているのですから。その未来のためならどんな投資も惜しみませんわ」
王家というあまりにも巨大でそして想像以上に懐の深い存在。
その恐ろしさとそして一条の光にも似た希望を、エリアーヌは同時に感じていた。
その恐ろしさと、そして、一条の光にも似た希望を、エリアーヌは同時に感じていた。




