第98話 擬態獣
体中にへばりついてくるスライムを引き剥がしながら、俺は必死にガエビリスを探した。
「大丈夫か!どこにいる!?」だが部屋のどこにも彼女の姿は見当たらない。
と、部屋の隅にスライムがひときわうず高く盛り上がった部分をみつけた。あの下に彼女が埋もれているに違いない。
膝の高さまで床を埋めるスライムから苦労して足を引き抜きながら、一歩一歩、スライムの山に向かう。狭い部屋の中のほんの数メートルの距離だがなかなか辿り着けない。
その時、部屋中のスライムが寄り集まり、山はその高さを急速に増し始めた。部屋の天井にぶつかるほど高くなったそれは形を変え、何かに変形しはじめた。柱のような二本の太い足と、たくましい二本の腕が伸び出る。
それは急ごしらえの長い腕を壁に向けて無造作に振るった。まるで紙細工のように易々と宿屋の壁が引き裂かれて吹っ飛んだ。その大穴から夜の通りが覗いた。
スライムは内部にガエビリスを抱えたまま、外へ去ろうとしていた。だが、俺は聖剣を抜き放ったまま躊躇していた。スライムに斬りつければ、中に取り込まれた彼女まで切ってしまうかもしれない。
立ちすくむ俺を残し、スライムは壁の穴から屋外へ身を躍らせた。そいつは巨体を柔軟に変形させて落下の衝撃を吸収しつつ、地響きを立てて路面に着地した。
俺は部屋のドアに突進した。部屋を埋めていたスライムは全てあの塊に吸収されたので、妨げるものは何もなかった。部屋を飛び出し、階段を二段飛ばしで駆け下り、転がるようにして宿屋の玄関から外に飛び出した。
宿の前の路上で、スライムは変貌を遂げていた。もはやそれはゼラチン質の塊ではなかった。体表は短く黒い毛で覆われ、筋肉の塊のような巨軀は二階の屋根に届くほど高い。今まさにその頭部には二本の湾曲した長大な角が生じつつあり、ミノタウロスへの変身が完成しようとしていた。
ミノタウロスは一声咆哮すると、俺に向かって突進してきた。獣は一抱えほどもある巨大な拳で殴りかかってきた。かろうじて避けた俺のすぐそばを豪腕がうなりをあげてかすめた。当たってもいないのに、通過した時の風圧だけで持って行かれそうになる。
砲撃のように続けざまに降り注ぐ鉄拳は舗装を打ち砕き、建物の外壁を叩き壊していく。たちまち俺は追い詰められてしまった。獣はとどめとばかり、握り固めた拳を高々と頭上に振り上げた。
そのとき、動作の途中で固まったかのように、巨獣の動きがぴたりと停止した。
細かな震えがその巨体を走り抜けたかと思うと、体表の質感が再びスライムのゼラチン質に戻った。直後、ミノタウロスの胸部が内側から爆発して破片が飛び散った。胸にぽっかり開いた大穴の中に、ガエビリスの上半身が覗いた。「ワタナベさん、早く……」息も絶え絶えの彼女の周囲には早くもスライムが群がり、彼女を再び肉塊の奥深くに埋めようとしていた。
言われるまでもなく俺はすでに動いていた。手にした聖剣を大きく横になぎ払い、彼女が閉じ込められている部分のずっと下、ミノタウロスの腰に斬りつけた。漆黒の刃は分厚い肉に食い込むと、何の抵抗も感じさせず易々と一刀両断した。上下に分断された巨獣の体が地響きを立てて崩れ落ちた。
俺は溶け崩れゆくミノタウロスの残骸に駆け寄り、ガエビリスを探した。死んで急速に腐敗していくスライムの塊に深々と腕を突っ込んで、彼女の感触を探る。いた。生ぬるいゼラチン質をかき分けた先で、指先が滑らかな彼女の肌を探り当てた。俺は悪臭を放つスライムに頭ごと上半身をめり込ませると、埋もれた彼女の体に両腕を絡めて、渾身の力で引きずり出した。まるで生まれたての赤子のように、漿液にまみれたガエビリスの体がずるりと外に現れた。彼女は気を失っていた。
「おい、しっかりしろ」頬を軽く叩くと、ガエビリスは意識を取り戻した。
すぐさま彼女は自分の喉に指を突っ込むと、激しく嘔吐した。胃液とともに吐き出したのは、十数匹の小さなスライムだった。吐瀉物にまみれてうねうねと蠢くスライムどもを、ガエビリスは燃焼魔術でまとめて黒焦げにした。口元を拭いながら彼女は言った。
「ふぅ……危なかったわ。寄生スライムに取り付かれていたら大変な事になる所だった」
「大丈夫か?」
「ええ、もう大丈夫よ。ありがとう、ワタナベさん。私を助けてくれて」
「いやいや、君がミノタウロスの体内で爆破魔術を使ってくれたから、反撃の機会ができたんだ。君の助けがなかったら、あっさり殴り殺されてた。ありがとう、ガエビリス」
「……でも、安心するのはまだ早かった、みたいね」
「ああ。どうやら、そうらしいな」
周囲の路上。路面のあちこちに埋め込まれたマンホールの蓋がカタカタと甲高い音を立てて震動していた。音はますます高まっていく。と、通りの奥から手前に向けて、固定金具を引きちぎって、マンホールの蓋が次々と上空に吹っ飛びだした。蓋はコインのようにくるくると空中で回転しながら落下すると地面に激突した。一帯は騒々しい金属音に満たされた。
蓋がなくなり、むき出しになったマンホールの中から、火口から溢れ出る溶岩のように巨大なスライムが這い出ようとしていた。
「逃げよう、ガエビリス」
まだ足下のおぼつかないガエビリスを支えて、俺は必死に走った。行く手を塞ぐスライムを聖剣で斬りつけながら退路を切り開く。だが敵の量はあまりにも多かった。気付けばすっかり包囲されていた。巨大なスライムたちは魔物を模した姿に変形しながら、じりじりと包囲の輪を狭めてきた。俺は死に物狂いで漆黒の聖剣を振り回し、近寄る敵を次々に斬り倒していったが、スライムは後から後から湧き出すようにマンホールから現れて、きりが無かった。隣ではガエビリスも魔術で応戦してくれているが、あまりにも多勢に無勢だった。
俺は肩で息をしながら、剣を振り続けた。滴る汗とスライムの体液が目にしみた。体力の限界が近づいていた、その時だった。
「撃て!」
号令一下、放たれた魔術の一斉射撃がスライムの群れを蜂の巣にした。
続けて、夜の闇に閃く銀色の刃が、斉射を耐えて生き延びたスライムどもを片端から始末していった。
その光景を呆然と眺めながら、俺はつぶやいた。
「……夜警。助けてくれたのか?」
だが、その場に現れたのは、お馴染みの黒いコートの魔物駆除部隊の戦士たちだけではなかった。灰色の制服、胸には白金の徽章。眼光鋭いこの男たちは間違いなく治安維持局の犯罪捜査官だった。彼らは人間の犯罪者を追う警察組織だ。それだけではない。数は少ないが長剣を手にした戦士たちも姿もあった。その粗野な雰囲気から判断して、おそらく冒険者だろう。
彼らの活躍でスライムは殲滅された。生き延びたものは、ぽっかりと口を開けたマンホールの中に撤退していった。
油断なくこちらを見つめる男たちの一団の中から、一人が進み出てきた。
傷だらけの甲冑をまとい、長いマントを背負ったその人物が誰か気付いて、俺は驚きの声を上げた。
「倉本か!俺だよ、渡辺だよ!久しぶりだな」
懐かしさに思わず駆け寄ろうとした俺に、倉本は冷たく言い放った。
「ワタナベヒロキ、第一種駆除対象種族ダークエルフの逃亡を幇助した罪でお前を逮捕する。おとなしく武器を捨てろ」
「え?何言ってんだ……」
「拘束しろ」
倉本の命令に従い殺到した男たちに、俺は抵抗むなしくあっさりと取り押さえられてしまった。ガエビリスにも別の男たちが駆け寄り、魔封じの手錠で手際よく拘束した。
「連行する前に、誰か、この二人に着るものを渡してやってくれ。さすがに素っ裸てのもあれだからな」
ようやく今になって気付いたが、俺はパンツ一枚だったのだ。ガエビリスに至っては何と全裸だ。
二人とも、昨晩、愛を交わし終わって眠りに落ちた時の、そのままの格好で今まで戦っていたのだ。必死だったのですっかり失念していたが……。
倉本の言葉に、どこからか男物の上着と、マントが投げかけられた。倉本はガエビリスをマントでくるみ、俺の肩に上着を羽織らせてくれた。
「さ、行くぞ。ついてこい渡辺。あ、そこのお前、その剣の扱いには気をつけろよ。絶対に鞘から抜こうとするなよ。さもないとお前、消えるぞ」
興味深そうに眺めながら無造作な手付きで神授の聖剣を運んでいた若い夜警隊員に、倉本は警告した。俺とガエビリスを取り囲んで、一行は夜明け前の街を進んでいった。




