第97話 都市への帰還
何台もの大型輸送車が轟音をあげて通り過ぎていく。通過する車両が舞いあげる砂塵と排気ガスの雲に包まれながら、俺とガエビリスは産業道路の路肩を歩いていた。
汚れた空気を吸い込まないため、そして顔を隠すため、俺たちは口元を布で覆い、フードをすっぽり被っていた。だが怪しまれることはない。俺たちの他にも、徒歩で都市を目指す貧しい人々が同じような格好で歩いているからだ。
「大丈夫?ガエビリス」
「ええ、なんともないわ」
言葉とは裏腹にガエビリスは辛そうだった。彼女は鞄から水筒を取り出すと、顔を覆うスカーフをずらして水を口に含んだ。
「もう少しの辛抱だよ。ほら、見て」
俺は行く手の先を指し示した。
耕作放棄されて荒れ果てた農地の真ん中をまっすぐに貫く産業道路の先、沈みゆく夕日に黒々とシルエットを浮かび上がらせて、巨大な都市が地平線上に広がっていた。
帰ってきたのだ。
ガエビリスと二人で逃げ出したあの時、二度と戻るまいと心に誓った、悪臭と汚濁と苦汁の記憶に満ちたあの都市に。
だが、今の俺はあの時の自分ではない。
俺は肩に掛けた背嚢を揺すった。袋の中で一本の剣がカタリと音を立てる。神授の聖剣セクタ・ナルガ。俺が選ばれた存在であることを証明する剣。
この剣に選ばれたが故に、俺は戻らざるを得なかったのだ。あの巨大都市のどこかに潜むという魔王を倒すために。そして自分が勇者であることを証明するために。
その日の夜、俺たちは都市に辿り着いた。寝静まった街は以前と違ってどこかよそよそしく、まるで見知らぬ街に迷い込んだかのように感じられた。離れていた一年足らずのうちに、この都市の何かが決定的に変化してしまっていた。
下層民たちが暮らす貧民街。ドブ川に沿ってみすぼらしいコンクリート製集合住宅が密集し、エルフの人口が人間を上回る地区。下水道清掃員だった時、俺はこの街の片隅でひっそりと暮らしていた。
いまや、この地区はすっかり様変わりしていた。
地区全体が背の高い板塀で取り囲まれ、封鎖されていたのだ。塀の上に覗く老朽化した集合住宅群の窓に灯りはなく、住人たちの姿とその生活の気配も消え去り、ただ打ち棄てられて闇に中に沈んでいた。
板塀には地区の再開発計画の内容の告示と、立ち退きを勧告する張り紙がべたべたと貼り付けられていた。
あれほどたくさんいたエルフたちはいったいどこに行ってしまったんだろうか。立ち退き区域に隣接して、一軒の小さな酒場が営業していた。以前、何度も入ったことがある店だった。俺とガエビリスは情報収集と夕食を兼ねて入店した。
店主の親父は俺のことを覚えていなかったが、質問には気前よく答えてくれた。
下層民地区の再開発計画はノムラ市長が推進していた。居座る住人に対してはかなり強引な手段まで使われたらしい。
だが、奇妙なことに、地区住民の過半数を占めるエルフたちは、再開発計画の話が聞こえてくる前から、すでに急速に数を減らしていたという。
エルフたちがどこに消えたのか、誰も知らなかった。深夜に何百人という大集団で都市の外へと出て行くのを目撃したという噂話があるのみだった。
「エルフの人たちは感覚が鋭いわ。人間が気付かない、何らかの異変の前兆を感じ取っていたのかもしれないわね」
「それって、魔王のこと?この都市に魔王が出現する前兆?」
「その可能性は高いと思う。エルフもまた、長いあいだ魔王に苦しめられてきた種族だから」
店の料理はそこそこ美味かった。俺たちはその夜の宿を求めて再び街に出た。
変わったのは貧民街だけではなかった。冒険者街もまた、その様相を大きく変えていた。
以前なら夜通し喧噪が絶えなかったその街は今、ひっそりと静まりかえっていた。かつては大手を振って通りを闊歩していた冒険者たちの姿はほとんど見当たらない。冒険者目当ての酒場や宿屋、カジノ、売春宿は閑散として開店休業中か、実際に店を畳んでいた。
だが、そのおかげで、遅い時間にも関わらず俺たちは簡単に宿を取ることができた。
連日の歩き通しで疲れ果てた俺は部屋に入るなりベッドに大の字になって倒れ込んだ。低級冒険者向けのその安宿の部屋は狭く、煙草の臭いが濃く染みついていたが、久しぶりのベッドは快適だった。
「ふう、なんとか無事到着したな、ガエビリス。懐かしきこの街に」
結果的に、都市までの道中は平穏無事に済んだが、なじみのない土地でいつ敵の襲撃を受けるか知れず、教団の廃墟を出てからここまでの旅は終始緊張が解けることがなかった。
「そうね。順調すぎたくらいかもね。でも、ここからが本番よ、ワタナベさん」
ベッドの端にちょこんと腰掛けたガエビリスが言った。
彼女の言うとおりだ。この都市こそが彼女の邪悪な兄、ギレビアリウスとその協力者である裏切り者の野村、そして魔王の本拠地なのだ。油断は禁物、これまで以上に警戒が必要になる。
すると、ガエビリスはキョロキョロと部屋のあちこちを見回しはじめた。
「どうした、何か気になることでもあるの?」
「……聞こえない?この音」
「え、何が?」俺は耳を澄ませた。彼女は俺よりはるかに耳がいい。まさか敵が接近する気配を察知したのか。一瞬、緊張が走る。
だが、ほどなくして俺の耳にもその音が聞こえてきた。宿屋の薄い壁を通して、どこかの部屋で男女が激しく体を打ち付けあっている物音が。
「……ずいぶんお盛んだね、あはは」
俺は多少気まずさを覚えながら言った。ガエビリスはうつむいて膝のあたりに視線を落としていた。その頰が赤みを帯びている。
「ねぇ、ワタナベさん。せっかくだし、私たちも……どうかしら?」
俺も完全に同意見だった。
彼女は俺の隣にころりと横になり、ぴったりと身を寄せてきた。柔らかい体が押しつけられ、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。俺は部屋の灯りを消した。
「ねえ、ワタナベさん、起きて」
数時間後。泥のように眠っていた俺はガエビリスのささやき声に起こされた。窓の外はまだ真っ暗だ。
「いったいどうしたんだよ。まだ朝じゃない……」
「部屋の中に何かいるわ」
それを聞いた瞬間、俺の眠気はただちに吹っ飛んだ。
耳を澄ますと、たしかに部屋の中でかすかな物音がしている。床の上を何かがゆっくりと動き回っている気配だ。ときおり床板が軋み、舌舐めずりのような湿った音がそれに混じる。
ゆっくりと頭を起こし、ベッドの縁から下をのぞき込む。カーテンの隙間から差し込む街灯の光を照り返して、ぬめりと光るものが床一面でうごめいていた。
スライムだ。それも大群だ。見ている間にも、洗面台の排水口からびちゃびちゃ音を立ててどんどんあふれ出してくる。あまりの気持ち悪さに俺は思わず絶叫しそうになった。
スライムどもは折り重なりながら、俺たちのベッドめがけていっせいに這い上ってきた。
俺はベッドサイドのランプを点灯した。部屋の中は肉色の地獄絵図だった。大量のスライムで足の踏み場もない。
ランプの光に驚いたスライムどもは潮が引くようにいっせいにベッドから遠ざかった。だが次の瞬間、奴らは寄り集まって巨大なかたまりを形成すると、再び押し寄せてきた。直撃を受けてベッドがひっくり返る。俺たちはスライムの上に投げ出された。ランプは床に叩きつけられて壊れ、部屋は再び闇に包まれた。




