第96話 魔王と勇者
「では、勇者とはいったい何なのです?」使徒のギレビアリウスは皇帝に問うた。
魔王と同じく、勇者の正体も謎に包まれていた。魔王の猛威が世界を脅かした時、別世界から忽然と現れ、世界を救ってきた英雄たち。なぜ彼らだけが魔王を倒すことができるのか。そして、彼らを別世界から召喚してきたのは誰なのか。
魔王は答えた。
「おそらく、余にかけられた不滅の魔術、その暗号を読み解き、弱点を見抜いた者の仕業だ」
「コード、弱点、それはいったい……」
「汝も知っておろう、すべての魔術の呪文において核をなすのは、魔法効果を端的に表現した短い暗号であることを。『敵を骨まで焼け』『傷口を塞げ』等々。複雑怪奇な不滅の魔術でもそれは変わらん。不滅の魔術のコードを翻訳すると、『この世のいかなる災いからも、対象者ギレビアリウスを永久に守護し生き延びさせよ』となる。この短い言葉の中にすでに答えが含まれているのがわかるであろう?」
使徒のギレビアリウスは打てば響くように即座に切り返した。
「つまり言葉を裏返せば、不滅の魔術は、この世の外からの災いには対応できない……」
「ふふふ、その通りだ」
魔王を守る不滅の魔術は、この世界の外からやってきた災い、すなわち勇者には無効なのだ。だから、勇者だけが魔王を倒すことができるのだ。
「全くとんでもない瑕疵、致命的な欠陥だ。おそらく何者かがこの欠陥を見つけ出し、勇者召喚を始めたのであろう。まったく、皇妃の眷属どもも、肝心要でつまらぬ愚を犯したものだ」
皇帝はかすれ声で低く笑った。
「そういえば、勇者と言えば、興味深い話があってな。近頃、また新たな勇者が現れたようなのだ。これを見るがよい」
皇帝は玉座のすぐ隣の空中に、映像を投影した。
「これは二週間前、ゾルス・ロフの寄生分身が送ってきた情報だ。場所はトルアンからだ」
トルアンといえばこの都市から数百キロ離れた山間の小都市だ。映像に映っている場所は酒場と思われる室内だった。ゾルスは二人の戦士と対峙していた。その足下には寄生分身の宿主となっていた男が、体を内側から破られ、抜け殻のようになって死んでいる。
矢で貫かれ、魔術の炎で焼かれながらも、ゾルスは二人の戦士をたちどころに始末した。
店内にはまだ他の客の姿があった。粗末な身なりをした若い男女一組の旅人だった。ゾルスは二人に向かって歩を進めていく。
そのとき、衝撃とともにギレビアリウスは旅装の女の正体に気付いた。
信じがたいことに、それは妹のガエビリスだった。そして一緒にいる若い男は、彼のもとから妹を強奪したあの憎き男、ワタナベだった。まさか、こんな場所まで逃げおおせていたとは。
「陛下っ、これはいったい!」
「まあ待て、続きを見よ」
ガエビリスが放った爆破魔術に怒り狂ったゾルスは、机や椅子を蹴散らして彼女に迫っていった。そのとき、ゾルスの視野の隅でワタナベが動いた。ワタナベは背嚢から一振りの剣を取り出し、すれ違いざまにゾルスに斬りつけた。ギレビアリウスの目から見ても、その太刀筋や斬撃の威力は素人以下だったが、たった一撃でゾルスはあっけなく崩れ落ちた。
横たわるゾルスの視野が周辺部から急激にぼやけていく。その中心にはワタナベが握る漆黒の剣が映っていた。反射光が一切ない、極薄の刃。まぎれもなくその姿は神授の聖剣の一本、無の剣セクタ・ナルガだった。ゾルスの寄生分身の視野は溶暗し、そして映像は終わった。
「……まさか、あいつが勇者だと。魔術さえ使えぬ無能力者のやつが?馬鹿な」使徒のギレビアリウスはせせら笑った。だが直後、ワタナベを追跡させた巨漢の戦士ゲイルが消息を絶っていることを思い出した。まさかゲイルはこの剣で斬られたのか。
「やつは勇者にしか握れる聖剣を扱っておったぞ。現実を認めるのだ。勇者はときに信じがたい者の中から現れる事がある。過去には10歳に満たぬ少女や、乞食の老人の勇者もいたのだ。下水道清掃員が勇者になっても何の不思議もない」
「ならば、早々に片づけてしまいましょう。やつは今どこに」
「わからぬ。少なくとも、まだこの都市にはおらぬ。余は下水道網が広がるこの都市の内側の事であれば、ほぼ全知であると言ってよいが、その外側となるとな。都市の外側を探らせるため、寄生分身を宿した密偵どもを何体も放っているがいまだ手がかりは見つからん。一方、地方から来た人間がこの都市で排泄した記憶にもそれらしい目撃情報は含まれておらぬ。
お前や市長からの追手から逃げるため、さらに都市から遠ざかったかもしれぬし、逆に魔王を征伐せんと、意気揚々とこの都市に舞い戻ってくる途中なのかもしれん。汝に何か考えはあるか」
玉座の肘掛けに頬杖をつき、皇帝は鷹揚に言った。
「ワタナベの手配書はすでに全国に通知済みです。地方の警備兵に見つかるのを避けるため、やつは船や鉄道などの交通手段は利用せず、通行の少ない脇道を利用して徒歩で移動していると推測されます。ゾルスとの戦闘が二週間前ですので、その直後からこの都市を目指して移動を開始したとすると、そろそろ到着する頃かと思われます」
使徒のギレビアリウスは言った。そしてさらに付け加えた。
「……ご存じかと思われますが、ワタナベは以前、ある事件を起こしております」
「水龍の件か」
「はい。あの事件から推察するに、そしてノムラ市長から聞いた話を考慮すると、ワタナベという男は人一倍劣等感が強く、その裏返しとして強い英雄願望があると思われます。人から尊敬されたい、注目を集めて世間を見返してやりたい、その感情が空回りし、発生したのが例の水龍暴走事件でした。そんな人間がもし、神授の聖剣を手にしたらどう行動するか……。自らが真の勇者であると証明するため、この都市に向かってくるのは間違いないでしょう」
「成程、そうであろう。遠からず、奴との戦いが始まるであろうな。ところでギレビアリウスよ」
「は、何でございましょう」
「余はこの新しき勇者との戦いを、すべて汝に任せたいと思う」
「承知しました」
「汝は余を、魔王を内側から支配することを欲しておったな」
「……お見通しでしたか」
「無論。使徒はすべて余の一部だ。独立した自我は与えているが、根底では余と繋がっている。どんなに精神の壁を巡らせ、隠そうと努めても、汝らの考えていることは筒抜けだ。だが、知っているからこそ、余は今回、汝をここに招いたのだ。
余は強い意志を持った者が好きだ。余の末裔であり、同じ名を持ち、強固な意志と行動力を備えた汝であれば、これ以上ない適格者である。さあ、近寄るがよい。汝の望み通り、我が力の全てを受け取るがよい。余はこのときをずっと待っていた」
皇帝の姿が亡霊のように薄れ、霧のように拡散して使徒ギレビアリウスを包み込んだ。霧はギレビアリウスの身体イメージに静かに浸透し、吸収された。こうして、皇帝と使徒、二人のギレビアリウスは一つに重なり合った。
皇帝と融合した心理学者ギレビアリウスは精神空間深部から猛スピードで浮上していった。
表層部では、ギレビアリウス本体が待っていた。
「ご苦労だった、心理学者。さっそく再統合し、魔王の情報を提供するのだ」
本体は心理学者に手を差し伸べた。だが、心理学者は差し出されたその手を冷たく見つめ返すのみだ。
本体ギレビアリウスは当然、分身が反抗する事態を前もって想定していた。だから分身を作る時には必ず自壊用の魔術を埋め込んでいた。本体が特定の呪文を唱えさえすれば、入手した情報を圧縮したパケットだけを残し、分身は消滅するはずだった。だが、心理学者は消えなかった。
「どうやら、魔王にハッキングされて、作り替えられたようだな」本体は言った。
「いや、違うぞ。私こそが魔王なのだ」
心理学者は本体ギレビアリウスの手首をがっしりとつかんだ。そして逆に本体を吸収した。




