第93話 下剋上
一度決意したギレビアリウスの行動は早かった。
彼は再び不定形のスライムの姿に戻ると下水管に潜り込み、都市の地下を埋め尽くす巨大な群体のもとへと這い戻った。偽足を細長く伸ばして慎重に接触し、自我境界に強固なプロテクトを施した上で群体と接続した。
精神空間に入ったギレビアリウスは自己イメージを鯨のような流線型の姿に変えると、大きく口を広げて漂う残留思念を貪欲に飲み込みはじめた。
膨大な情報量に圧倒され、ただ翻弄されていた初回とは違い、今回は残留思念を適切に処理することができた。飲み込んだ他者の思念の残滓は大半が屑そのものだったが、中にはきらりと光る宝石も混じっていた。なかでも自由騎士団の戦士たちの魂の残骸がもたらしてくれた戦闘経験の記憶や魔術の知識は貴重だった。彼は膨大な屑の中からそれらだけを濾過し、自らのものとしていった。有益な記憶や知識を吸収するたびに彼は強く大きくなった。まさに知識は力であった。
巧みに情報の海を泳ぎ回りながら、ギレビアリウスは獲物を求めた。
獲物とは、この海を泳ぎ回る他の使徒だ。
彼は鯨からクラゲのような姿に自己イメージを組み替えた。
スライムになってから、彼は姿形というものがかりそめに過ぎないことを学んでいた。人間やダークエルフという固型の存在形態に縛られていては決して到達できなかったであろう認識だ。今の彼は思うがままに自分の肉体や自己イメージを作り変えることができた。
クラゲになった彼は、一帯に繊細な精神の触手を張り巡らせ、獲物が通りかかるのを待った。獲物が接触すると体内へと極細の触手を侵入させ、彼らの心の中を探った。
魔王に選ばれた使徒たちは皆、いびつな人格の持ち主だった。その精神は憎悪と悪意、あるいは狂気で満たされていた。
ギレビアリウスのように卓越した魔術師でもない彼らがこの海で自我を保持していられる謎も解けた。彼らはあまりにも他者への共感能力が低かったり、常人に比べ精神構造が特異すぎるため、すべてに浸透し、同化しようとする残留思念でさえ歯が立たなかったのだ。要するに社会に溶け込めない変人だった故にスライムの精神空間にも溶けず、独立したアイデンティティを維持できていたにすぎなかった。
彼らの心の中は肥大化した自我と歪んだ思考といびつに成長したトラウマで混沌とし、まるで暗い森のようだった。だが、どんな外道でも心の奥底に無垢な部分を隠し持っていた。彼は無防備なそこにたっぷりと猛毒を含んだ刺胞を打ち込んだ。弱点を突かれた使徒たちはあっけなく彼に屈した。
ギレビアリウスは倒した使徒を一人ずつ配下に加えていった。支配下においた使徒の数が二十人を超えた頃から、ひとりでに数が集まりだした。集めた使徒たちを組織化することで、強力な上位使徒に対抗するのもより簡単になった。ギレビアリウスは下剋上を続け、使徒たちの間で存在感を増していった。
ゾルス・ロフやキンクなどの初期からの使徒たちはそれを遠巻きにして煙たげに眺めていた。だが、彼らとの衝突は時間の問題だった。
攻撃は突然だった。
ギレビアリウスが展開していた精神の触手が寸断された。彼はただちにクラゲからもっと素早く獰猛な存在、サメへと姿を変えた。切断箇所へと矢のように急行すると、そこには第十六使徒マルキオと第二十三使徒ヴェッツが待ち構えていた。彼は二人のイメージをずたずたに食い破った。だがそれは囮だった。隠れていた使徒たちがいっせいに飛びかかり、彼を精神空間から強制的に叩き出した。
ギレビアリウスは群体から分離し、一体のスライムに戻った。
いち早くダークエルフの姿に変形し使徒たちの襲撃に備えた。下水道の内壁は薄ピンクのスライム群体で分厚く覆われ、コンクリートの地肌は少しも見えない。濡れた肉塊がびくびくと脈打ち、イトミミズのような養分吸収触手が汚水の流れになびいている。
と、スライム群体の一部が膨張し、人の姿に変形した。同様な膨らみがギレビアリウスを包囲するように十数か所に生じ、人の姿をしたものたちを吐き出した。
そのうちの一体、肥満体の男はウロク・コシャーマだ。元犯罪組織のボスで、敵対する組織の者だけでなく一般市民さえも残忍な手口で殺害してきた根っからの悪人だ。めでたく魔王の御眼鏡にかない三番目の使徒に選ばれていた。陰気な顔をした痩せぎすの男は第十使徒ランドー・オルズスだ。不運にもこの男の餌食に選ばれた一家は、有り金をすべて吸い取られた挙句、暴力により洗脳され身内同士で殺し合うよう仕向けられた。犠牲者の遺体を解体し下水に遺棄していたことから、魔王にその存在を知られるところとなった。他にも強姦魔のセラピア老人、それに幼女連続誘拐犯のキンク・ビットリオもいる。いずれも精神の底まで腐りきった悪人揃いだ。
そして、彼らの後ろから姿を現したのが、快楽殺人鬼の第一使徒ゾルス・ロフだった。
「お前さぁ、最近ちょっと調子に乗りすぎてんじゃねーの、ギレビアリウスさんよぉ」ゾルスが言った。
「うむ、新参者の分際で何を企んでるのか知らんが、制裁が必要だな」コシャーマが指の関節を鳴らしながら言った。
「ねぇ、さっさと殺っちゃいましょうよ、ゾルスさん」キンク・ビットリオがゾルスに寄り添い卑しく言った。
「おやおや、皆さん揃って怖い顔をなさって。一体これはどういうことです?私が何をしたというのです」微笑を浮かべながらギレビアリウスが言った。
「しらを切るな。最近の貴様の不穏な動きは、我らそして偉大なる魔王様に対する明白な反逆だ。断じて許すわけにはいかん」コシャーマが怒気もあらわに、禿頭に太い血管を浮かびあがらせて言った。
「ふん、そういう訳でしたか。……調度いい機会です、こうして上位使徒の皆さんが一堂にお集まりになった今、私と皆さんのどちらが使徒を統率するのに真に相応しい者か、この場で決めてしまいませんか」ギレビアリウスは白い歯を見せて鮫のように笑った。
「ふざけるな」
「舐めやがって」
「てめぇぶっ殺してやる」
使徒たちの間から口々に怒りの声が漏れた。それを聞いてギレビアリウスの笑みがいっそう大きくなった。
「馬鹿め、この人数を相手に勝てる気か。いいだろう、粉々にすり潰してやる」コシャーマはそう言うと両腕をチェーンソーに変形させて突進してきた。人間だった時から使い慣れた武器なのだろう。コシャーマに続き、他の使徒たちもいっせいに飛びかかってきた。
ギレビアリウスは古代魔術「蛇炎」を放った。爆発的に生じた巨大な猛火の竜巻がまるで大蛇のように使徒たちを飲み込んだ。莫大な魔力を必要とする古代魔術で、以前ならば魔力増幅装置「魔導座」がなければ使えなかった代物だ。だがスライム群体から無尽蔵の魔力を自在に引き出せる今では、そういった補助装置なしで巨大なエネルギーを即座に解放することができた。スライムの再生能力限界をはるかに上回る超高温の炎の渦に呑まれた使徒たちは一瞬にして消し炭と化した。
「ひぃぃ!!」キンク・ビットリオは尻尾に火をつけたままどこかへ逃げ去った。
ギレビアリウスは足元の一部をスライムに戻し、群体に接続した。即座に、精神空間内にいる配下の使徒から連絡が入った。
「ギレビアリウスさま、計画通り、上位使徒たちの魂の封印を完了しました」
「うむ、ご苦労だった」
愚か者どもめ。
ここまでの展開はすべてギレビアリウスが仕組んだ通りだった。自分を囮にして上位使徒たちを精神空間から物質世界におびき寄せ、魔術で一挙に殲滅する。同時に、奴らの注意が物質世界に向いているその隙に、精神空間で無防備になった上位使徒たちの魂を部下たちが封印し、活動停止させる。すべては赤子の手をひねるがごとく簡単だった。
だが、まだ一人残っていた。
「うへぇ、おっかねぇな。俺も何人か死んじまったぜ」ゾルス・ロフだった。
「仕方ねぇ、何人か補充しとくか」その言葉とともにスライム群体に複数の瘤が生じ、新たにゾルスの分身を四体吐き出した。
「ほう、まだ生き残ってましたか。さすがは第一の使徒。いったいどうやったのか教えていただきたいものです」ギレビアリウスが言った。
「教えるかよ、馬鹿」
耳元にゾルスの声を聞いた直後、ギレビアリウスは背中をナイフで刺された。気づかぬうちに、背後にもう一体の分身が作り出されていたのだ。無論、刺傷ごときでダメージを受けることはない。だがナイフの刃には毒が塗られていた。細胞呼吸を停止させる毒だ。ギレビアリウスは崩れ落ち、下水に膝をついた。総勢六体のゾルスが彼を取り囲んで見下ろした。
「わかったかよ、どっちが上だってことが。誰もこの俺には勝てねぇんだよ」
「…………」
「どうした、もうしゃべることもできねぇか」
「……ふふふ」ギレビアリウスは忍び笑いを漏らした。
「何がおかしい。てめえ、何笑ってやがる」
「……なあ、ゾルス坊やよ。おじさんのことは覚えてるかい?」
ギレビアリウスは顔を上げた。だがその顔は彼のものではなかった。口ひげを蓄えた、いかつい中年男に変わっていた。その顔を見たゾルスの顔面が蒼白になった。六体すべてのゾルスがだ。何故ならこの顔こそ、幼少期のゾルスに繰り返し性的虐待を加えた母親の交際相手のものだったからだ。ギレビアリスはすでにゾルスの心の奥底からこの記憶を盗み出していたのだ。この男こそがゾルスのトラウマの核、究極の弱点だった。
「たっぷりとお仕置きが必要だな、ゾルス」
全身を男に変身させたギレビアリウスは立ち上がると、鋭い目つきでゾルスを見下ろした。その太い両腕で筋肉が盛り上がった。
「ああ、ああぁ……」ゾルスは六歳の無力な子どもに戻っていた。
こうして、ギレビアリウスは至極あっさりと、すべての使徒たちのトップの地位を手に入れた。




