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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅲ部
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第92話 転生せし者

 洗面台の排水口から、一体のスライムが姿を現した。

 それは洗面台の縁を乗り越えると、べちゃりと湿った音を立てて床に落下した。そして床の上を緩慢に這って行くと、部屋の隅で団子状の塊を形成して動かなくなった。


 ここは古い建物の地下室だった。元は私立の魔術学園の校舎だったが、三十年前に廃校となって以降、長い間取り壊されることもなく放置されてきた。だが、最近になって政府機関に買いとられ、魔術の研究施設として改築されていた。

 この施設の責任者はヴィルタス教授という男だった。

 つい先日、この男はとある事故で死亡していた。それ以降、この施設での研究は急遽中断され、施設は無人となっていた。


 実は、このちっぽけなスライムこそが、施設の責任者のヴィルタス教授、即ちギレビアリウスの成れの果てだった……。



 地割れの下で待ち構えていた巨大なスライムに飲み込まれたギレビアリウスは一瞬にして肉体を溶かされた。

 だがその直前、意識を失う間際に彼は声を聞いた。声は彼の心に直接語りかけてきた。

「ダークエルフのギレビアリウスよ、汝は我が使徒となる資格がある。このまま消え去るか、我に仕え、忠実なる下僕となるか、選べ」

 当然、彼は使徒となる道を選んだ。


 彼の肉体は瞬時に溶けて失われたが、精神は残った。

 彼は意識だけの存在となり、スライムの中に存在していた精神空間を沈んでいった。


 肉体を失ったことで彼の自我の境界線は不明瞭になっていた。どこまでが自分の意識で、どこからが他人のものなのかさえ判然としない。自分という存在が広く薄く拡散していくようだった。気を緩めると、周囲から身に覚えのない記憶や、得体のしれない感情が自分の中にどんどん浸透してくる。ギレビアリウスは自己の周囲に壁を巡らし、これらの雑多な想念の侵入を防いだ。


 空間には無数の残留思念がゴミのように浮遊し、記憶の断片が茶色く濁った渦を巻いていた。その様はまるで下水のようだった。おそらく、これまでスライムが消化吸収した人間の魂の残骸なのだろう。あるいは下水から吸収した、都市の人間が排出した感情か。それとは別に、ときおり濁った空間の向こうに魚のように泳ぐ者の存在を感じた。これはたぶん自分と同じ使徒だろう。


 暗く淀んだ空間の向こうから、精神の触手が彼の方に伸びてきた。他の使徒が接触してきたのだ。


「あんたも使徒になったんだな、ひひひ」

「その声……キンク・ビットリオか」


「その通り、よく覚えててくれましたね。てっきり俺たち地下の住人のことなんて忘れちまったのかと思ってましたよ。あの時はよくも捨て石にしてくれたな。自作自演の茶番劇のために俺たちを焚きつけて怪物にしやがって。で、そうやって手に入れた市長の腰巾着の地位を投げ捨てて、今度はこっちに宗旨替えですかい」


「私のことを怒っているのか」

「当たり前だろ。……いや、今は正直どうでもいい。あんたとは違って、真に偉大な指導者に出会うことができたからな」


「この馬鹿でかい反吐のようなスライムのことか」

「何と不敬な言い方。おい、第1527番使徒、ギレビアリウス。まだ駆け出しの新米使徒だから今回限りは多めに見てやるが、次からそんな無礼な呼び方は絶対に許さんぞ。この偉大なる御方、今や都市の地下世界全土を完全掌握されているこの方こそ、『魔王』様その人なのだぞ」

「魔王か……成程」


「俺たち使徒は魔王様に仕えることで生存を許されている存在。もし魔王様の不興を買うようなことがあれば、たちまち溶かされて、そこらを漂ってる残留思念の欠片の仲間入りさ。お前も気を付けることだな、新入り。あと、親切心から教えておいてやるが、使徒には厳然としたヒエラルキーがある。早く使徒になった者ほど地位が高くそして強い。今のあんたは三十七番使徒のこの俺の足元にも及ばんだろう。ほら、こんな感じにな」


 ギレビアリウスは激しい痛みに引き裂かれた。見ると、自己イメージ像の半身がごっそりとえぐりとられているではないか。

「きひひひ、どうだどうだ。最高にいい気分だぜ」

 ドブネズミの自己イメージ像をまとったキンクが目の前に浮かんで笑っていた。


「命だけは取らないでおいてやる。とっとと失せろ、蛆虫め。ひゃはは」

 ギレビアリウスはキンクの太い尻尾に叩かれ、弾き飛ばされた。


 衰弱したギレビアリウスに向かって、他者の想念の欠片が寄生虫のようにまとわりついてきた。そしてキンクにつけられた傷口から群れをなして体内に侵入してきた。自分のものでない無数の記憶が脳内で花開き、自分がギレビアリウスなのか、ドークンなのか、イコリオなのか、アルデリスなのか一瞬わからなくなる。

 このままではアイデンティティを維持できない。危機感を覚えたギレビアリウスは自我のすべてを凝縮し、小さなスライム一体分に押し込んだ。そして巨大な群体から離れ、物理的に接続を断った。


 安全な隠れ家を探し求めた彼は、下水管を通ってかつて自分がいた場所に戻ってきたのだ……。



 物理的存在としてのギレビアリウスは、いまや一体の小さなスライムに過ぎなかった。

 もしこのちっぽけなスライムが死ねば、今度こそ彼は死ぬ。生き延びるためには早くこの新たな存在形態に慣れる必要があった。もはや彼はダークエルフではなくスライムなのだ。スライムとして生き、餌をあさり、生殖しなければならないのだ。


 彼は団子状の塊を解くと、再び活発に動き出した。体を伸縮させて無人の研究施設中を這いまわり、食べられそうなものに出会うと何でも取り込み、消化吸収した。調理室に残された食材、ゴミ箱の残飯、それに実験動物の死骸まで。それらを食べ尽くす頃には体のサイズが最初の三倍以上に膨れ上がっていた。

 これくらいの質量があれば大丈夫だろう。


 彼は再び部屋の隅でじっと動かなくなると、ゆっくりと変形しはじめた。

 長い時間をかけ、それは胎児の姿勢で横たわる男の姿になった。長い黒髪の青白い皮膚の男だ。男は微動だにしない。やがてそのまぶたがゆっくりと開き、深い青緑色をした瞳が覗いた。

「…………」

 ギレビアリウスはゆっくりと体を起こして床に座った。だが突然、彼は咳き込むと、口から大量の黄色い液体を嘔吐した。液体は体を濡らし、床に水たまりを作った。ギレビアリウスはまるで初めて見る物のように自分の両手をじっと見つめ、拳を握ったり開いたりした。


 久しぶりに取ったダークエルフの姿は、窮屈で不自由に感じられた。

 だが、頭を使って思考するには、この姿の方が向いてるようだった。スライムの姿で長く居すぎると、自分が人であったことを忘れ、しだいに下等生物同然のレベルまで退化してしまうだろう。



 ギレビアリウスは衣服を身に着けると、雨戸をしめ切った暗い研究室内で椅子に腰かけて考え始めた。

 自分はこれからどうすべきなのか。

 再び人の姿に戻れるようにはなったが、あくまでそれは外見上に過ぎず、体組織は依然スライムの細胞から構成されていた。だから乾燥や日光には非常に弱い。市民に紛れ、都市で社会生活を送るのは難しいだろう。それに自分の死の瞬間はクラモトやササキにはっきりと見られていた。死んだはずの自分が今更ノムラのもとに戻ったところで正体を怪しまれるだけだ。


 それよりも……。

 魔王の使徒として生きる道を見出す。

 キンクの話では、彼の使徒としての順位は1527番目で、今のところ使徒の中では最も階級が低いらしい。だが、彼には低い身分からスタートして指導者的な地位にまで登りつめた経験がすでにあった。地下の街がそうだし、市長の副官の地位がそうだった。人心を掌握し、意のままに操作するのは彼が最も得意とするところだった。魔王の使徒といえども、結局のところ、人がつくる社会集団であることに違いはない。今までと違うステージで同じゲームをプレイするだけの話だ。

 そして、使徒としてのし上がった後は、内側から魔王そのものをも支配してみせる。

 面白くなってきたぞ。ギレビアリウスは静かに笑った。

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