第91話 市長の敗北
野村は倉本と佐々木に救助され、地上に生還した。
坑道跡をさまよっている所を二人に発見されたのだ。
倉本たちは地割れが生じた時、とっさに崖のふちをつかんで転落を免れた。
しかし、ギレビアリウスは助からなかった。秋本の姿をとった「敵」が話していたように、彼は確かに死んでいた。倉本たちはその様子をスライムの半透明の表皮を通してはっきり見たという。
ギレビアリウスはスライムの上にまともに落下し、すぐに飲み込まれた。はじめはスライムの体内から抜け出そうと必死でもがいていたが、すぐに皮膚が溶けだして筋肉や皮下組織がむき出しになり、ついには骨だけになってそれも跡形もなく消えた。一瞬のことで助け出す間さえなかったという。
地上に戻った後、野村は一日休養を取っただけで公務に復帰した。
しかし、彼はもはや以前の彼ではなかった。彼の中で燃え盛っていた野心と熱意はすっかり失われていた。今の彼を動かしているのは恐怖、ただそれだけだった。
野村は憔悴していった。
腹の中ではときおりスライムが蠢動した。そのたびに内臓を引き裂かれるような激痛が走った。仕事中でも痛みは突然襲ってきた。野村は額に脂汗を浮かべ、歯を食いしばって耐えた。痛みは増す一方で、やがて耐えられなくなると鎮痛剤を常用するようになった。だが効き目は芳しくなかった。
もとから薄かった頭髪はさらに薄くなり、頭頂部は完全に脱毛してしまった。眼の下にはいつも濃い隈ができ、頬はげっそりと削げ、顔には皺が目立つようになった。彼の外見は一気にニ十歳近く老け込んでしまったかのように見えた。
だが、痛みよりも耐え難かったのは頭の中に響く声だった。
「……よう、野村。今日も一日、精いっぱい頑張ってくれよな」
体内に寄生するスライムは秋本俊也の声で野村の脳に直接話しかけてきた。もちろん、野村だけにしか聞こえない。
スライムはいかなる時でも野村の行動を監視していた。執務時間でも、プライベートな時間でも、入浴や排便の時でさえ、やつは野村の一挙手一投足を見張り、耳をそばだてていた。
何度か、体内に巣食うこの悪魔を除去しようとしたことがあった。
しかし、病院に行こうとしたり、医師に連絡を取ろうとすると決まって野村は激痛に襲われて気絶した。診察を受ける事さえ許されなかった。寄生虫に効く薬を飲もうとしたが、それもできなかった。野村の意図は体内に寄生するスライムにいつも敏感に察知され、激痛をともなう失神という罰で報いられた。
何度も罰を受けているうちに、パブロフの犬のように、野村は寄生スライムの摘出について考えただけで痛みを覚えるようになってしまった。
「……余計な事は考えず、あんたはちゃんと自分の仕事をしてりゃいいんだ。心配しなさんな、俺もあんたを死なせたくないんだ。寄生体と宿主は一蓮托生だからな。はじめは養分を奪いすぎて宿主を死なせたり、発狂させたりいろいろ失敗はあったさ。でも俺も経験を積んで学習した。できるだけ宿主にダメージを与えずに、尚且つ適切にコントロールする方法を確立しつつある。俺たちは運命共同体だ。これからも末永く頼むよ、相棒。くくく……」
野村は市長の仕事に倦んでいった。
単なるスライムの傀儡として市長の座に就くのは苦痛でしかなかった。
いっそのこと、またクーデターが起きて、今度こそ軍が政権を奪取してくれれば。いつしか野村はそう願うまでになっていた。だが、それは果たされなかった。野村と対立していた将軍たちは次々と不審な死を遂げ、あるいは失踪していった。
「……お前の仕事の邪魔をする奴らは順調に消していってるぞ。感謝しろよな」
かわりに新しく将軍に就いた男はこれまでの軍の指導者たちとは対照的に、野村に対し非常に協力的だった。
だが、野村はこの男が嫌いだった。はじめて顔を合わせた瞬間から、一目見ただけで嫌いになった。まるで蛞蝓のようにぬめっとした陰湿な男で、こいつに比べればクーデターを起こしたかつての将軍たちのほうが余程ましだった。将軍になる以前の彼の階級は将校の中でも低く、なぜ彼が将軍に抜擢されたか、軍内でもこの異例の人事に異を唱える者が多かった。
「……あいつは使徒だ」寄生スライムは言った。
つまり、新将軍は「敵」の息のかかった者だったのだ。軍の兵士には何人も、「敵」に魂と肉体を捧げた使徒と呼ばれる裏切者どもが潜入しているらしい。軍の組織もまた内部から「敵」に侵食されつつあった。これで、ひそかに軍に情報を流し敵を殲滅してもらうという手は打てなくなった。
追い打ちをかけるように、都市では不可解な殺人事件が相次いだ。
施錠した密室で、あるいは家族がいる隣室を経由しないと入れない部屋で、若い女性が相次いで惨殺された。犯行現場はあまりにも凄惨で、遺体の損壊の程度が激しく、捜査に当たった治安維持機構の隊員たちがPTSDを発症したほどだ。
奇妙なことに、どの事件現場でも共通して、部屋の排水口の周辺に透明な粘着物が検出されていた。
明らかに「敵」の仕業だった。
「話が違うじゃないか。地上には干渉しないと言ったはずだぞ」
野村は誰もいない執務室内で体内のスライムを問い詰めた。
「……いやいや、あれは俺の仕業ではない。使徒の誰か、たぶんゾルスのやつがやったことだろう」
「なぜ止めない、お前の手下だろう」
「……俺の意志に従って肉体を捧げるかわりに、自我と自由意志は残す。それが使徒たちと結んだ契約だ。俺の意に反しない範囲でやつらが何をして楽しもうと俺の知ったことではない」
「そんな……」野村は絶句した。
この状況を誰かに相談できたなら。倉本と佐々木は大幅に減った自由騎士団の欠員を補充するのに忙しく、顔を合わせる時間はほとんどない。仮に会ったとしても体内のスライムが話すことを許してくれない。
こんな時、ギレビアリウスがいてくれたなら。
野村はそう思わずにはいられなかった。




