第88話 総攻撃③
市内各地の下水道で「敵」と自由騎士団との激しい戦闘が繰り広げられていた。
ミューリンとヒリアのマリノネス姉妹も敵と相対していた。
下水道の床から天井まで届くような巨大なスライムの塊。それは全体をゆったりと脈動させて彼女たちを見下ろしていた。
「えーやだ。きもーい。これが『敵』なのぉ?」妹のヒリアが言った。
フリルがあしらわれた丈の短いローブをまとった可憐な姿は、あまりにも下水道に似つかわしくなかった。身動きするたび、頭の両サイドで束ねた長い髪が揺れる。
「そうよヒリア。この腐ったゲロの塊みたいのが今回の敵、変異型スライム群体よ」
姉のミューリンが言った。妹と対照的に、彼女は防具を身に着け、髪も戦いの邪魔にならないよう短く切っている。武器は二振りの長剣。そこから繰り出される目にもとまらぬ連続斬撃を得意技とし「疾風のミューリン」の異名をとる。
「スライムなんか楽勝じゃん。きもいし臭いし、速攻で倒して上に戻ろうっと」
ヒリアはそういいつつ魔法のロッドを構えた。
その先端部がサッと白い霜に覆われたかと思うと青白い閃光を放った。
ヒリアが得意とするのは冷凍魔術。極超低温の冷気を撃ち込み、標的を凍結させる。スライムの塊は一瞬にして芯まで凍りつき動きを止めた。かに見えたが、凍っていたのは表層だけだった。スライムは凍りついた表層を脱ぎ捨てるとヒリアめがけて飛びかかった。
「きゃあ!」ヒリアが悲鳴を上げる。
その時、鉄杖の一撃がスライムを叩き落した。
「……ヒリアよ、油断するでない。ただのスライムだと思って侮るなかれ」
白いひげを蓄えた初老の戦士、セパイだった。彼は元、聖教会の修行僧という異例の経歴の持ち主だ。全身の筋肉は長年の苦行で鍛え抜かれ、鉄杖の一撃は岩をも粉砕する。「ぬんっ!」セパイは気を込めた一撃を打ち込んだ。衝撃でスライムは破裂し、粉々の断片となって飛び散った。
スライムの断片は空中で変形し反撃に転じようとした。だが、ミューリンの連続切りによって厚さ数ミリの断片にスライスされ、完全に死滅した。
「ふう、いっちょ上がりっと。さ、次行くわよ」ミューリンが言った。
「げ、まだあんなにいるんだ……」ヒリアは下水道の奥に目をやった。新たなスライムが闇の奥から湧き出すように次々と現れつつあった。
幅5メートルほどの矩形の断面を持つ下水溝。そこでも一人の戦士が「敵」と戦っていた。
身長二メートルを超す大男だ。身にまとったコートはあちこちが破れ、ぼさぼさに伸びた前髪と無精ひげが顔の表情を隠している。全体として男から漂うのは、獣のように強烈に野性的なオーラだ。見たところ、大きな手には武器らしきものを何も握っていない。
男はスライムの群れに取り囲まれていた。前後左右おまけに天井にまでいる。どこにも逃げ場などない。スライムはじりじりと包囲を狭めると男めがけていっせいに飛びかかった。男は分厚いスライムの層の下に完全に埋もれた。
だが次の瞬間、男に覆いかぶさったスライムは爆発したかのように周囲に吹っ飛んだ。爆心地に立つ男の姿は変化していた。瞳は金色に輝き、顔や手は濃い体毛で覆われ、手には鋭い鉤爪が並んでいる。男は人狼戦士だった。名はガザン。人外種族でありながら自由騎士団所属の冒険者。
吹き飛ばされたスライムたちが再び動きだした。
その不定形の塊は粘土のように形を変えていった。触手を伸ばし、昆虫のような肢を生やし、鋭い歯を生じ、醜悪な寄せ集めの怪物と化した。餌として取り込んだ下水道の害虫、害獣の形態を模倣することで、攻撃能力を飛躍的に上昇させたのだ。
「オオオオオオオオッ!!!!」ガザンは遠吠えを上げた。
牙をむき出しにして怪物の群れに突進すると、紙細工のように安々と引き裂いた。
さらにまた別の場所。そこでも一人の戦士が戦っていた。
金色にまばゆく輝く剣を手にし、身にまとう甲冑もまた金銀に光っている。「黄金の剣アルデリス」だ。大富豪の跡取りとして生まれながら、冒険者の道を選んだ男だった。装備した武器、防具から下着に至るまで、すべて贅の限りを尽くした特注の高級品ばかり。しかし決して財産だけが取り柄の男ではなかった。剣の腕は自由騎士団でも一二を争うレベルであり、しかもその美貌は多くの若い女を虜にしていた。
彼が対峙しているのは、巨大な怪物だった。
さきほどまでスライムの塊だったそれは今、バジリスクへと姿を変えていた。
「なるほどね、『災いの日』に倒された魔物の血も下水道に流れ込んでいたわけか。そしてそれをスライムが取り込んでいたと……。ふふ、これは面白い」
バジリスクが甲高い奇声を上げて襲いかかってきた。アルデリスは猛毒のくちばしをかわすと細い首に黄金剣を振り下ろして切断した。転がった頭部をすかさず聖なる炎で焼き払う。鱗に覆われた胴体が地響きを立てて下水道に崩れ落ちた。
バジリスクの胴体は見る見るうちに形を失ってスライムに戻り、新たな姿を取り始めた。四本の足をもつ馬のような体から、人間型の上半身が生えている。ケンタウロスに似た姿だが、それははるかに醜怪だった。床に届くほど長く伸びた両腕、いびつに膨れ上がった頭部、透明な皮膚を透かして見える血管や筋肉や内臓……。ナックラビーだ。
ナックラビーは折り畳んでいた足をまっすぐに延ばして巨体を起こした。その頭部は下水道の天井につかえそうなほど高い。だらりと開いた口から、泡立った粘液が糸を引いて滴り落ちた。怪物は聞く者をぞっとさせる声で絶叫した。
「来いよ、何度でも倒してやる、化物め」アルデリスは不敵に笑った。
夜警たちもまた奮戦していた。
「自由騎士団に後れを取るな。我らの力、今こそ示す時だ!」夜警隊員のラウスが言った。
偵察を終えた後、彼らも敵との戦闘に加わった。
個々の戦闘能力は自由騎士団には劣るが、彼らには都市を怪物から守ってきた長い歴史と矜持があった。これまでの敵との戦いで大勢の仲間を失い、組織としては弱体化していたが、この場で自分たち夜警が戦わないことなどありえない。それは全員が考えていることだった。そのため志気と結束はきわめて高かった。
シャモスは真鍮のロッドを構えながら、仲間たちとともに下水道を進んでいた。
前方の闇の奥から、全身を収縮させてスライムが這い寄ってくるのが見えた。
「いました、スライムです!」シャモスは叫んだ。
「一斉射撃用意!撃て!」ラウスが命じた。
シャモスたちは雷火魔術を放った。魔術の弾幕を受けてスライム群体は蜂の巣になって死滅した。遭遇した「敵」の数はこれで七体目だった。変身されると厄介なので、早期発見と先制攻撃に努め、スライムの状態まま素早く仕留める。これまでの経験から、「敵」は戦闘が長引くと、過去に取り込んだ生物に変身して攻撃してくることを夜警は学んでいた。
シャモスほか、夜目のきく隊員たちが先頭に立って膝まである下水をかき分けるように進んでいく。その時、シャモスは前方にかすかな光を見た。魔術で作った浮遊光球のようだが妙に暗いのが気になる。目を凝らすと、薄暗い光のもとに十数名の男たちの姿が真っ黒いシルエットとなって見えた。
彼らは皆、コートをまとっているようだった。夜警の他の部隊の者たちだろうか。だが反対方向から来る部隊があるという話は聞いていなかった。それに不審なことに、彼らは沈黙を保っていた。
いったい何者だ。シャモスが誰何しようとした時だった。
彼らの一人が腕を持ち上げ、ロッドから魔術を水平射撃した。仲間の一人が胸を撃ち抜かれ、下水の中に崩れ落ちた。
「何をする!貴様たち何者だ!」
シャモスは叫ぶと、魔法光の照度を上げて前方を照射した。光が照らし出したのは夜警隊員たちの無表情な顔だった。彼らは皆、下水道で行方不明になった者たちだった。その中にはシャモスの知った顔も二つ三つ混じっていた。
「ラウスさん、あいつら……」
「残念だが、人間ではあるまい。おそらく『敵』が変身した偽物だろう」
「くそっ」シャモスは毒づいた。
「総員、一斉射撃用意!」ラウスが命じた。シャモスたちは真鍮のロッドを構えると魔力を励起させた。同時に夜警たちに変身した「敵」もロッドを構える。
「撃てェ!」ラウスの号令とともに双方が一斉に魔術を放った。
その夜、都市の地下の至る所で、戦士たちは多様な武器と技を用いて戦った。剣で、曲刀で、槍で、戦斧で、杖で、大鎌で、棍棒で、己が拳で。あるいは冷凍魔術で、雷火魔術で、火焔魔術で、分解魔術で、風力魔術で、変質魔術で、猛毒魔術で、高圧魔術で……。
「盗賊戦士グロッタ」「漆黒のオルブリン」「美しき毒蛇」「密林の勇士ゾバス」「肉の壁」「五百人殺し」……。様々な通り名を持つ勇敢な男女が「敵」を相手に激しく戦い、命を散らしていった。
「はぁ…はぁ…。あーっ疲れた。もう限界……」
下水で尻が濡れるのにも構わず床にへたり込むと、ヒリアは言った。
周囲には破壊されたスライムの残骸が山と積もっていた。可憐な衣装は見る影もなく、汚水とスライムの体液で汚れきっている。先ほど倒した一体を最後に、スライムの出現は途絶えていた。
「……さすがに、あれが最後だったんじゃないかな」果てしなく続いた「敵」との戦いに、姉のミューリンも体力の限界に達していた。「ふう、この歳になると堪えるわい」鉄杖にすがりつくようにして立つセパイが言った。見事な白髭は乱れ放題だ。こうやって見るとただのくたびれ果てた老人にしか見えない。
「……おやおや、皆さんお疲れかな」
下水道の奥から見知らぬ男の声がした。
異様な気配に、三人は弾かれたように武器を手に身構えた。
「誰じゃ……」セパイが訊ねた。
「じじいに名乗る名はねぇよ。すっこんでろ」
その言葉とともに見えない力が押し寄せ、セパイを吹き飛ばして下水管の壁に深々とめり込ませた。骨の砕ける嫌な音が響き渡った。
「俺の名はゾルス・ロフ。さてとお嬢さんたち、お楽しみはこれからさ」
そう言うと、不気味な優男は鋭いナイフにベロリと舌を這わせた。




