第81話 選ばれし者
無の剣を握った俺の手から、白い煙がしずかに立ちのぼりはじめた。
発煙は手から腕、そして胸をへて、またたく間に全身へと広まっていった。煙に包まれるとともに、油っぽく黒光りする外骨格が、手足の棘が、感覚毛が、薄れて消え去っていく。
ついに始まったのだ。
勇者にあらざる者が無の剣を剣を取った代償が。
俺は平静な気分で、自分の存在が消え去る最期の瞬間を待った。
恐怖はなかった。感じるのは喪失感と、そして意外なことに達成感だけだった。勇者だけに許された聖剣を手にして敵を倒したあの一瞬、ほんのひと時だが、俺はやっと秋本に追いつけたような気がした。ずっとあこがれ、劣等感を抱き続けてきたあいつに。
やがて何も見えなく、何も聞こえなく、何も感じられなくなった。ついには意識までもが薄れはじめた。
さようならガエビリス。それが俺の最後の思考だった……。
…………。
かすかな肌寒さを覚え、俺は再び意識を取り戻した。
どういうことだ、俺の存在は消滅したのではなかったのか。
俺は静かに目を開いた。
消え去る前と同じ光景がそこにはあった。崩れ落ちた瓦礫の山。うつぶせに横たわるゲイルの巨体。その周りには赤黒い血の海が広がっている。失神したまま床に投げ出されているガエビリスの姿もある。
まさか幽霊になったんじゃないだろうな。自分の体を通して向こう側が透けて見える光景を半ば予期しながら、恐る恐る視線を下に降ろす。
俺の肉体はまだ存在していた。
だがそれはローチマンではなく、持って生まれた人間の肉体だった。
俺は一糸まとわぬ裸体だった。どこにも欠けたところはない。ただローチマン由来の組織だけが綺麗さっぱり消え去っていた。
右腕には漆黒の刃を持つ聖剣を握ったままだった。あらためて、無の剣の柄をしっかりと握りしめる。血肉を備えた俺の身体は厳然として存在し続け、消え去るそぶりさえ見せなかった。
こうして、俺は神授の聖剣に勇者として認められた。
だが、それで俺の日常がすぐさま一変するということはなかった。
「本当に、俺って勇者なのかな……」
そうつぶやくのは何度目だろうか。
ゲイルの遺体を森に埋葬し、襲撃で壊れた地下室から別の部屋へと荷物を運び出したりしてるうちに数日がまたたく間に過ぎた。俺は畑仕事をしながら考え込んでいた。
たしかに俺はあの剣を握っても体が消滅しなかった。
だが、言ってみればそれだけなのだ。魔王が攻めてきたわけでもないし、聖教会の司教が俺を祝福してくれたわけでもない。神秘的な力が使えるようになったわけでもない。むしろ、ただの人間に戻ってしまったので、身体能力的にはローチマンだった時よりも弱体化していた。
そもそも本当に俺が勇者だとしたら、戦うべき魔王はいったいどこにいる。肝心の魔王は秋本がとっくに倒してしまったではないか。
それどころか、あの剣は本当に神授の聖剣なのか。それさえもが疑わしく思えてきた。ガエビリスの話では、あの剣が祭られていた祭壇の部屋はかつては教団の聖所だったらしい。だが、あんな剣など見たことがなかったという。
あんなに夢見ていた勇者になったのかもしれないというのに、俺は悶々と日々を送っていた。
「町に行ってみない?何かわかるかもしれないよ」
そんな俺を見かねて、ガエビリスが言ってくれた。
「ひょっとしたら、新たな魔王が現れたのかもしれないし、とにかく情報を入手しましょうよ。一人で頭の中で考え込んでるだけじゃ何にも解決しないわよ」
数日後、俺は町に行くことにした。
話し合った結果、ガエビリスも同行することになった。
ゲイルに隠れ家の場所を知られた以上、その情報は何らかの手段ですでにギレビアリウスや野村に伝わっている可能性が高かった。すぐにまた新たな追手が差し向けられてくるに違いない。彼女一人を残していくのはあまりにも危険だった。
幸い、俺はもうローチマンではないので、人目を避ける必要がない。それにガエビリスも耳さえ隠していれば人間の娘と見分けがつかない。二人ともさほど怪しまれることはないだろう。
すでに俺たちは焼け落ちた金庫室跡や地下倉庫など、廃墟の数か所からまとまった額の貨幣を見つけていた。それを使えば町での食事代や宿代には困らないだろう。
隠れ家の廃墟からもっとも近い町までは、歩いて丸二日かかる距離だった。
これまでの旅と違い、堂々と街道を通って行った。ガエビリスは灰色の地味なローブを着て、日射しを避けるため目深にフードを引き下ろした。俺は廃墟の物置から見つかった服でサイズが合うものを適当に見繕って着た。傍目には遍歴の女魔術師と、その付添人か何かに見えただろう。道ですれ違った人々から不審な目を向けられることはなかった。
もちろん、無の剣は肌身離さず持ち運んでいた。それは俺の背嚢に丁寧に布で包んで収められていた。
湖のほとりにあるトルアンの町は、木材や農産物の輸送拠点として栄えていた。
ここで船に積まれた荷物は湖から流れ出るソウ川に沿って下り、あの都市まで運ばれる。逆に、都市で作られた工業製品や加工食品、海外からの輸入品は川をさかのぼってこの町まで運ばれる。町は大勢の商人や、周辺の山村から買い出しに来た農民たちで賑わっていた。
売店で新聞を買って隅々にまで目を通した。
だが、世界のどこかに魔王が出現したことをうかがわせる内容の記事は一つもなかった。
都市では市長になった野村博信が大胆な改革や規制緩和を断行し、空前の好景気が到来しようとしていた。だがあまりにも急進的な改革に異を唱える人々も大久、彼らとの間で激しい論争が続いていた。数か月前に起きた軍のクーデター未遂事件の処分として、当時の将軍三名に死刑判決が下されていた。魔術公社は国立魔道学院と共同で新たなる魔法の開発に成功した。都市に面する海域の水質汚染が深刻化し、魚の大量死が発生していた。
俺が山奥にこもっている間に、外の世界は目まぐるしく変化を続けていた。
夕方。白い壁に群青色の瓦が美しい通りを歩き、俺とガエビリスは冒険者が集まるという一軒の酒場に向かった。都市にあった冒険者街の規模には遠く及ばないが、それでも何らかの情報は手に入るだろうと期待してのことだ。
この地域には未攻略のダンジョンなど残っておらず、強力なモンスターも出現しないため、冒険者の数はきわめて少なかった。その時店にいた客で、冒険者と思われる者は二名しかいなかった。一人は屈強な体格の剣士で、もう一人は長弓を背負った狩人風の男だ。
剣士は元兵士の農民で、明日から冒険者として都市に出稼ぎに行くらしい。
狩人は獣型の魔物を追って辺境の山中を旅しているらしい。この付近の山奥に巨大な怪物が出没するという噂を聞いてやってきたとの事だった。たぶんそれは怪物化した教主ドーマンの事に違いない。
けっきょく、二人からはあまり有益な情報は聞き出せなかった。
諦めて店から立ち去ろうとした時だった。
「なあ、あんたら冒険者だろ。ちょっと待ちな、話がある」
俺たちは一人の老人から声をかけられた。




