第80話 剣
ゲイルが大剣を振るたび、荒れ狂う衝撃波が木々を粉砕した。
飛び散った木片が銃弾のように飛び交う森の中を、俺は必死に走った。
やがて行く手に一本の大木が現れた。幹の太さは二メートルほどもある。俺はその影に身をひそめた。ここならひとまず衝撃波を避けることができそうだ。体じゅうの傷から流れ出た体液が、足元の地面に汗のように滴り落ちる。背中の翅は根元からちぎれかけてぶら下がっていた。
なんてとんでもない化け物を敵に回してしまったんだ。
これ以上、あんな攻撃を受け続けたら体がもたない。いたずらに森の中を動き回り、衝撃波に身を晒すのは得策ではない。衝撃波をかわしつつ何とか接近して反撃の機会をうかがうべきだ。だが、近づいたら近づいたであの大剣が待っている。どうしたらいい……。
しばし考えた結果、一つのアイデアが浮かんだ。成功の可能性は低いが試すしかない。
「……ったく、どこ行きやがった。腐れゴキブリめが」
悪態をつきながらゲイルが通りがかった。
衝撃波で低木や藪があらかた吹き払われてしまったため、森の中は見通しが良くなっていた。二メートル超の長身はここからでもはっきりと確認できた。逆に相手からも俺がよく見えるはずだ。
ほどなくゲイルは立ち止まり、こちらへと顔を向けた。
どうやら気づいたようだ。ゲイルはまっすぐ向かってきた。
落ち葉を踏みしめる足音がどんどん大きくなる。腕には大剣を握ったままだ。
俺は地面に横たわり、落ち葉に顔を埋めてじっと耐えた。
もっとだ。もっと近くまで引きつけるんだ。間合に入り込めるほど近くまで。
ゲイルは立ち止まり、落ち葉の間から突き出た黒い翅を拾い上げた。
黒くて薄い昆虫の翅だが、サイズは一メートル以上もある。
「ふん、あの野郎、バラバラになって死んだか」
それは俺の背中から生えていた翅の一枚だった。
ゲイルをおびき寄せるための罠として、俺が自らの手で引き抜いた翅だった。
その瞬間、俺は落ち葉の中から飛び出した。
そして手に握った鋭い木片を、ゲイルの膝の裏に開いた鎧の隙間に渾身の力で突き立て、ねじ込んだ。
だが、木片は刺さらなかった。
目を凝らすと、ゲイルの膝裏と木片の尖端の間に数ミリの空間が空いている。どんなに力を込めてもそれ以上押し込むことができない。力に耐えきれず、木片が俺の手の中で砕けた。
直後、ゲイルの回し蹴りをまともに食らい、俺は地面を転がった。
「おお、あぶねぇ、あぶねぇ。俺としたことがまた油断しちまったぜ。だが前回の反省を活かし、今回はちゃあんと護身結界を用意してきたからな。残念だが、お前は俺に傷一つつけることはできねぇよ」
護身結界。術者の全身を覆い、あらゆる物理攻撃から保護する厚さ数ミリのエネルギーバリアだ。
せっかくの奇襲は失敗に終わった。
地面に這いつくばった俺の前に、ゲイルの巨体がそびえ立った。
ゲイルは西日を背にし、黒い影となって俺をじっと見下ろしていた。
万事休すか。もはや逃げる事さえできない。
「……たかがローチマンの分際で、お前はよく戦ったよ。モンスターにまで落ちぶれたとはいえ、さすがは勇者アキモトの古馴染みということか。最期は一思いに我が剣の一閃で砕け散るがいい」
ゲイルはスッと大剣を上段に構えた。
刃が青い陽炎のようなオーラをまとって光る。ゲイルは両腕に力を込め一気に剣を振り下ろした。
竜巻のような烈風が襲いかかり、俺の体は空高く飛ばされた。まずは左腕が、それから右足の膝から下がちぎれ飛んだ。スローモーションで流れる時間の中、俺は自分の体が少しずつバラバラになっていくのを冷静に知覚していた。
ごめん、ガエビリス。
ずっと一緒にいるって約束、守れなかった。
俺は長々と上空を飛んだ後、教団の廃墟の屋根に墜落した。
激突の衝撃で、かろうじて屋根を支えていた腐った梁が折れ、傾いていた屋根全体が崩壊を始めた。壊れた屋根の残骸はその下の階を巻き添えにしながら、地下深くにまで崩れ落ちていった。もうもうたる土埃が夕暮れの空に立ち上った。
信じがたいことに俺はまだ死んでなかった。
俺は積み重なった瓦礫の上にあおむけに横たわっていた。頭上に開いた大穴からは、数階層分の廃墟の断面の向こうに一番星の光る夕空が見えた。
ここは秘密の地下室の一部だろうか。これまで入ったことのない場所だった。崩落に巻き込まれなかった部分に祭壇のようなものがあった。その上に飾られているのは宝剣だろうか。どこか奇妙な剣だった。夕暮れの最後の光が、天井の穴を通してその剣に降り注いでいた。
不思議と痛みは感じなかった。
まもなく俺の命は尽きるだろう。いくら生命力の強いローチマンといえども、これほどのダメージには耐えられない。
その時、瓦礫が転がり落ちる小さな音が聞こえた。
上の階から、瓦礫の山をゆっくりと這い下りてくる人影が見える。
乱れた長い黒髪、黒い服。ガエビリスだ。
彼女は散乱する瓦礫の間を、注意深く足を運びながら俺に向かってやってくる。
「ワタナベさん、そんな……」
ガエビリスは俺を見て息をのんだ。よほどひどい状態らしい。
俺は彼女を安心させたくて、残った腕を差し伸べた。触角は両方とも根本から切れてなくなっていたので、もうメッセージを伝えることさえできない。
俺は涙の伝う彼女の頬に、指先でそっと触れた。その手をガエビリスがぎゅっと握り締める。
「これはこれは……探す手間が省けたぜ」
おぞましい声が聞こえた。
「いちおうゴキブリ野郎の死骸を確認しておこうと来てみたら、妹君がおいでになっていたとはね」
ゲイルは大きな足で瓦礫を踏みしだきながら迫ってくる。
「……止まりなさい。これ以上近寄ったら、私は自ら命を絶ちます」
ガエビリスが言った。その手には一振りのナイフが握られていた。
その切っ先は自らの喉元に突きつけられていた。ただの脅しではない証拠に、彼女の白い喉にはすでに血がにじんでいた。
「あなたたちには私の、闇の血統の末裔としての力が必要なのでしょう。私に死なれたらあなたも困るはず。さあ、早くここから立ち去りなさい!」
「おおっと、早まるんじゃない。落ち着いて、落ち着いて……」
そう言ってゲイルは立ち止まるかに見えた。だが次の瞬間、奴は目にも止まらぬ動きで一気にガエビリスに迫り、鳩尾に拳を入れて失神させた。足元から崩れ落ちる彼女の体をつかんで、肩の上に荷物のように担ぎ上げる。彼女の手を離れたナイフが床に落ちてカランと音を立てた。
「ふう、ヒヤヒヤさせんじゃねーよ。この女に怪我でもさせようもんなら、俺の身が危ないっつうの」
ゲイルは額の汗をぬぐった。
その間、俺はぼろぼろの体に残った最後の力を総動員し、瓦礫の上を這っていた。
目指すは祭壇の上の奇妙な剣だ。
不思議なことに、俺はその剣に見覚えがあるような気がし始めていた。刀身が真っ黒で、夜の闇のように黒い怪しい剣……。黒い金属でできているというより、漆黒の宇宙空間そのものを切り取って、剣の形に鍛えたように見える。見れば見るほど、その剣は並のものではありえなかった。
慄然として、俺はその剣が何であるかを悟った。
まさか、そんな馬鹿な。なぜこの剣がこんな場所に。ありえない。
なぜならこの剣は、秋本俊也が、勇者が魔王を倒すのに使った神授の聖剣、その一本『無の剣』。
伝説では、勇者以外のものが神授の聖剣を握って冒涜した場合、その者は身をもって大いなる代償を払うことになるという。中でも『無の剣』は最も恐ろしい。それが求める代償は、存在の消滅、無への回帰。
だが、俺はどのみち死にかけている。
たとえこの身が消え去っても、ゲイルを倒しガエビリスを救えるのなら悔いなどない。
俺はようやく祭壇に辿り着いた。
そして不気味な漆黒の剣の柄をしっかりと握った。
ようやくゲイルは俺の動きに気づいた。
それに、手にした剣の存在にも。ゲイルの目がまん丸く見開かれた。
「……その剣は。馬鹿な!何故セクタ・ナルガがここに!それに何故お前がそれを握れるのだ!」
ゲイルは唾を飛ばして絶叫した。
俺はゲイルめがけて無の剣を振った。厚さ数ミリもない鋭利な無の刃がゲイルへと伸び、引き締まった巨体を一瞬にして断ち切った。




