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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅲ部
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第78話 束の間の幸福

 ガエビリスは怪物に向かって手を差し伸ばした。

 怪物は長い舌を伸ばし、彼女の手を舐めた。


(…どういうことだ…)俺は聞いた。

「きっと、教主さまにもあなたと同じ事が起きたのよ、ワタナベさん。それに地下の街の人たちとも。教主さまはダークエルフ、つまり私の母親と交わった。おそらく変化の霊液も飲んでいたに違いないわ。変身の条件は整っていた。そして兄さんに殺され、怪物として復活した……」



 教主ドーマンだった怪物は嬉しそうに鼻を鳴らしていたが、ふいに長く伸びた眼で俺のほうを見た。

 次の瞬間、怪物はばっくりと巨大な口を開いた。

 まるでカバのような大きな口の中に、とがった杭のような牙がずらりと並んでいた。

 俺は思わず後ずさった。俺を餌だと認識したのか。


「ちょっと待って!ダメ!こら!止めなさい!……止めろ!」


 ガエビリスは怪物を怒鳴りつけた。

 怪物は口を閉じると、叱られた子犬のように哀れっぽい声をあげて大人しく引き下がった。


 それにしても、叱りつけるだけで巨大な怪物を大人しく服従させるとは。

 地下の街を何年間も取り仕切ってきただけのことはある。やっぱり彼女はただの女の子じゃないと改めて認識した。


 やがて怪物は俺たちに背を向けると、静かに森の中へと去って行った。



「あれ以来、こうやって何年間もずっと森の中をさまよっているのね。人格や知能はもう残ってないだろうけど、わたしのことは覚えているみたいだった……」


 ガエビリスは教主ドーマンに対し、いまだに複雑な感情を抱いているようだった。

 彼女を自らの目的に利用するためだけに育ててきた男でありながら、血を分けた実の父親。正体は冷酷で異常な男だったが、彼女に親しく接してくれた唯一の大人でもある。

 森の中に消えていった巨体を見送る彼女の視線は、心なしか少し寂しげだった。

 夜の冷気にあたって体が冷えてきたので、俺たちは地下室へと戻った。



「ねぇ、ワタナベさんのご両親って、どんな人なの?」


 地下の居室に戻ると、ガエビリスが聞いてきた。

 彼女は大の字になってベッドに寝そべり、天井を眺めている。


 意外な感じがした。この世界に来て初めて、他人から家族のことを聞かれたからだ。俺は隣りのベッドから触角を伸ばし、彼女の白い二の腕に軽く触れさせた。


(…俺の両親か。ふつうだよ。父親は公務員で、母親はスーパーでパートやってた…)


「コウム…、スーパー、何?」


(…ごめん、こっちの世界にはない言葉だったね。つまり父親は下っ端の役人で、母親は市場で働いてた。二人とも平凡な人だよ。でも、二人とも俺に優しくしてくれたな…)

 両親のことを考えるなんてずいぶん久しぶりだ。突然、これまで心の奥に閉じ込めてきた思いが溢れ出し、俺は胸がいっぱいになった。二人は今、どうしているだろう。俺のことはもう死んだと思って諦めているのだろうか。今でも元気にしているだろうか。


「また、会えるといいね」


(…そうだね。でも、この姿で会う訳にはいかないな。息子がゴキブリの怪物になったって知ったらショック受けるだろうなぁ…)


「はは、それもそうだね。会う前に何とかしなくちゃね」



「でも、いいなぁ。普通の家族ってあこがれる。私にはそんなのなかったから」

 ガエビリスがつぶやいた。


「……私って、ずっと一人ぼっちだったから。教団の館では教主さまがたまに構ってくれるだけで、ずっと一人で遊んでいたし。兄さんと出会ってからの何年かは、しばらく寂しさを感じずに済んだけど、でも結局、兄さんも私を地下の街に置き去りにして旅に出てしまった。そして戻ってきた時にはもう、以前の兄さんじゃなくなってた。まるで……そう、あんなに憎んでた教主さまそっくりだった」


 ガエビリスが自分の心の内側を人に語るのは珍しかった。

 少なくとも、俺ははじめて聞いた。

 俺は黙って彼女の話に耳を傾けた。


「もちろん、弟のリゲリータはいたし、地下の街の人たちもかけがえのない仲間だった。でも、私は姉として、彼らを導くリーダーとして、弱みを見せる事なんてできなかった。誰にも言えなかったけど、本当はつらかったんだ。でも、そんな私の前にあなたが現れた」


 いつしかガエビリスは俺のことをじっと見つめていた。


「あなたは他の人たちとは違った。もちろん、聖典に予言された闇の勇者ではあったけど、それとは違う意味で特別だった。なぜだかわからないけど、あなたと一緒だと、とてもホッとするし、なんだか嬉しくなるの。これまで人に出会って、こんな感じになった事ってなかった。私って、感情を表に出すのが苦手だから、わかりにくいとは思うけど……」


 俺は心臓を高鳴らせて彼女の話を聞いていた。

 ひょとして、これは不器用な愛の告白なのか。

 これまで二人旅を続けて彼女とはずいぶん親しくなっていた。だけどはっきりと口に出して親愛の情を告げられるのはまるで別の経験だった。



「私はもうあの街には戻れないし、これからここでずっと暮らしていくことになると思う。でも、ひとりだけじゃ寂しいから……。だからワタナベさん、私とずっと一緒にいてくれる?」


(…もちろん。だけど、本当に俺なんかでいいのか?こんな醜い怪物の俺で…)

 俺は触角を震わせながら、やっとのことでメッセージを伝達した。

 ガエビリスは大きくうなずいた。


(…じゃ、じゃあ、こんな俺だけど、これからもよろしく、ガエビリス…)

「……ありがとう」



「ねぇワタナベさん、あなたのこと、もっと教えて」ガエビリスは言った。

 

 そして俺たちはベッドに並んで横たわりながら、夜通しで話した。俺が元いた世界がどんな場所だったのか。どんな人生を歩んできたのか。これから二人でどんな暮らしをしていきたいのか。農園を拡大して、鶏や豚も飼いたい。いや、それ以前に、俺を人間の姿に戻る方法を考えなきゃ。人間に戻れば、言葉で会話することもできるし、それに抱き合うこともできる……。



 彼女と語り合ったこの夜は、この世界に来て以来、いや、これまでの人生で一番幸福な時間だった。


 秋本たちに憧れ、何とか自分も彼らに追いつこうと必死にもがいていた、あの暗い日々のことを思い出す。自分の進むべき道が見つからず、下水道清掃員として働き日銭を稼いで生き延びるしかなかったあの絶望の日々。

 けっきょく俺は英雄になるどころか、ゴキブリ人間ローチマンという人間以下の怪物にまで身を落とした。だが今の俺はかつてないほど幸せだった。自分を愛してくれる人さえいれば、世界からどう評価されようと構わない。

 俺にはガエビリスがいる。他にはもう何もいらない。

 勇者なんて、かつての仲間たちなんて、もうどうでもいい。彼らは彼らの人生を歩めばいい。


 俺はそう思っていた。

 そう、あの日が来るまでは。

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