第74話 旅の途中
そこは村はずれの農家だった。
深夜。家人はみな寝静まり、どの部屋の明かりもとっくに消えている。
台所もまた闇に閉ざされていた。
その時、勝手口の扉がかすかな音を立てて開いた。
わずかに開いた隙間から、巨大な黒い影がサッと室内に侵入した。
もしこの様子を家人が見ていたなら、おぞましさのあまり失神しただろう。
台所に侵入したのは、人間大の巨大なゴキブリの怪物だった。
ゴキブリの怪物は室内を物色し始めた。
見かけによらず、そいつの動作は慎重で配慮が行き届いていた。
手当たり次第に荒らし回るようなことはせず、できるだけ室内を乱さないよう注意深く戸棚や物置の中を探っていく。
結局そいつはパン一塊と干し肉とリンゴとカボチャを見つけ出した。
ゴキブリの怪物は食料品を小脇に抱え、入ってきた扉から外へと逃走した……。
俺は山中の隠れ家に辿り着いた。
かつて炭焼き小屋として使われていたらしいボロボロのあばら家だったが、雨風を防ぐにはこれで十分だった。この一週間ほど、俺とガエビリスの二人はここで寝泊まりしていた。
中に入ると、ガエビリスが床にちょこんと座って、俺の帰りを待っていた。
「おかえりなさい、ワタナベさん」
(…ガエビリス、ただいま。食べ物が手に入ったよ…)
触角の先を彼女の白い二の腕に軽く触れ、メッセージを伝達した。
「今晩はいったい何が手に入ったの?」
ガエビリスは今夜の戦利品に興味津々だった。そしてカボチャに目を留めるとうれしそうに顔を輝かせた。
「うゎぁ大きなカボチャ。美味しそう。今から料理するから、ちょっと待っててね」
彼女は立ち上がると、いそいそと調理の支度を始めた。
旅の途中で拾った壊れた鍋に水を注ぐ。水は歩いて数分の小川から汲んできて貯めておいたものだ。
次に彼女は包丁を取りだすと、カボチャを切り分け、種を取りだした。切ったカボチャは鍋に投入する。それに塩や砂糖、木の実などを加える。
俺は人間ではなくなった。
だが、道徳心までなくし、心まで人間でなくなってしまったらおしまいだ。泥棒は良くないこともちゃんとわかっている。
だけど実際、山中で見つかる木の実や小鳥の卵、茸だけで食いつないでいくのは難しかった。ゴキブリ人間の俺はその気になれば腐った木でも干乾びた動物の死骸でも何でも食べれたが、ガエビリスはそういうわけにはいかなかった。彼女は栄養失調で痩せ細っていった。そして俺はやむを得ず盗みに手を染めていった。とうぜん罪悪感はあったが、こうして彼女が楽しそうに料理する姿を見れるのなら、この程度の悪事なら引き受けても構わないという気がしてくるのだった。
鍋に蓋をすると、ガエビリスは鍋に向けて手をかざした。
それから数分間、彼女は顔を真っ赤にして力み、鍋に魔力を注入し続けた。
ようやく鍋の水がふつふつと沸騰し始めると、彼女はふぅとため息をついた。
「だめね。やっぱり魔力が落ちてる」
たしかに、地下にいた時の彼女の魔力はもっと強力だった。
爆破の魔術で岩にトンネルを穿ち、夜警のハルビア総隊長とも魔術を駆使して戦った。地下迷宮ではあの倉本を相手に互角以上の戦いを繰り広げさえした。
だが、今の彼女は鍋一杯の水を沸騰させるのさえやっとだ。やはりダークエルフという闇に属する種族の特性上、地上では弱体化してしまうのだろうか。
やがて料理は完成した。
(…いただきます…)
俺はホクホクしたカボチャを勢いよく頬張った。
だが、熱くて口の中を火傷してしまった。
熱さに苦しむ俺の様子を見て、ガエビリスは言った。
「ちょっと大丈夫?」
(…ああ、あんまり美味しそうだったものだから、つい焦っちゃって…)
「もう、ちょっと見せてみて。……口を大きく開けて。はい、あーん」
俺はガエビリスに言われた通り、大顎、小顎を左右に大きく開き、複雑な構造の口器の奥まで見えるようにした。
「ここ、ちょっと火傷してるわね。動かないでね」
そういうと、ガエビリスは俺の口の中に指を突っ込み、火傷した場所にじかに触れて治癒魔術を使った。少しずつ痛みが引いていった。
(…ありがとう、助かるよ…)
食事を終え、空腹が満たされた俺たちは床に寝転んだ。
ガエビリスは仰向けで、俺はうつ伏せで、並んで横になる。
もうすぐ夜明けだ。昼夜逆転した生活を送る俺たちが眠る時間だ。
「……今日の夜、目が覚めたら移動を開始するわ」
(…わかった。その場所まで、あとどれくらいかかりそうだ?…)
「たぶん、あと二週間くらいだと思う」
俺たちの旅の目的地。
ある日、ガエビリスはその場所のことを話してくれた。
彼女の兄が絶対に探しに来ない場所。
そこは、忌わしい記憶に彩られた呪いの地だった。
ガエビリスとその兄ギレビアリウスはそこで生を受けた。
(…本当にいいのか。辛くないのか?…)
「怖いわ。でも、あなたが一緒なら耐えられると思う」
ガエビリスの手が俺の背中に触れ、体節の継ぎ目にそってゆっくりと撫でた。
小屋の壁の隙間から、朝の光が射しこんできた。
澄んだ光の下で見る彼女の顔は美しかった。地上で長い時間を過ごすうちに、地下にいた時のどこか退廃的な美しさは影をひそめ、替わりに健やかで生命力にあふれた美が宿り始めているようだった。頬や長い耳は薄い桜色に染まり、こちらを見つめる瞳の青緑の光彩が朝日を反射してきらめいた。それはまるで深い地中から掘り出されたばかりの宝石のようだった。
もし俺の肉体が人間のままだったなら、ためらわず彼女を抱き締め、口づけしていたことだろう。
だが俺は醜いローチマン。手足からは棘毛が伸び、指先はするどい鉤爪。唇のかわりに付いているのはごちゃごちゃとした付属肢。力いっぱい抱いたりしたら、彼女の柔肌に傷をつけてしまうだろう。
触角で軽く触れるだけなんて、もどかしくて気が変になりそうだった。
「おやすみなさい。ワタナベさん」
そう言うと彼女は俺によりいっそう身を寄せて、頬にキスをした。




