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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅲ部
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第71話 ドブネズミ

 キンク・ビットリオは怯えていた。

 地下深くの闇の中で、彼は膝を抱えて一人震えていた。


 ちくしょう、だまされた。

 あいつ、ギレビアリウスの野郎にまんまと乗せられた。

 そのせいでこのザマだ……。

 キンクはラットマンに変身していた。あの日以降、ずっと鼠人間のままだった。

 たぶん、俺はもとの人間にはもう戻れないのだろう……。




 ギレビアリウスが地下の街に戻り、住人たちを怪物へと変えたあの日。

 キンクはギレビアリウスに忠誠を誓った。

 集会場での演説は素晴らしかった。今まで自分の心の奥底に眠っていた思い。それが見事に言葉へと昇華され、ギレビアリウスの口を通して淀みなく語られていた。

 キンクは憎んでいたのだ。地上の都市を。そこに住む人間たちを。

 その憎しみは、自分でもびっくりするくらい激しいものだった。


 かつて地上の都市に住んでいた頃。

 キンクは別の名を名乗っていた。両親に与えられた本当の名前を。

 彼は毎日仕事に通い、平凡な一市民として暮らしていた。


 だがある日、彼は罪を犯した。

 彼は逮捕され、裁判の結果、精神矯正措置を受ける事になった。

 反社会的な人格の矯正、異常な嗜好の除去、および懲罰的条件付けの埋め込み。

 脳神経系への過剰な魔術的干渉により、彼は廃人になった。


 廃人と化して街をさまよっている時、彼は多くの人間からリンチを受けた。

 街中の人々は彼が起こした卑劣な犯罪のことを決して忘れなかった。

 彼は蹴られ、殴られ、生ごみをぶつけられ、犬の糞を食わされた。

 周囲にいる者たちも冷ややかな目で傍観しているだけで、誰も止めに入ろうとはしなかった。


 心身共にボロボロになった彼の前にある晩、一匹のローチマンが現れた。

 地下の街に誘われた彼は、新たにキンク・ビットリオとして生まれ変わった。


 廃人だった時に虐待された記憶は今でもはっきり残っていた。

 上品な顔で澄ましている地上人どもをこの手で八つ裂きにできるなら、どんな代償だって払ってもいい。たのむ、俺をもっと強くしてくれ。彼は直々にギレビアリウスに頼み込んだ。

「よし、いいだろう」彼は快く引き受けてくれた。

 魔術的改造により以前の変身の欠陥は修正され、変身の持続時間と攻撃力が大幅に伸びた。キンクはギレビアリウスの足元にひれ伏し涙ながらに感謝の言葉を述べた。だが、まさか人間に戻れない体にされてしまったとは、あの時は思いもしなかった。



 そして一斉蜂起の日。

 隕石の落下で混乱する地上の都市に、キンクは仲間の怪人たちとともに襲いかかった。

 今こそ復讐の時だ。彼は血に狂った獣と化した。

 だがそれも長くは続かなかった。

 殺戮の場に駆けつけた冒険者たちによって、仲間たちは次々と倒されていった。キンクは彼らを見捨て、慌てて地下へと逃げ帰った。



 そして、それからずっとキンクは下水道に潜んで機会をうかがっていた。

 やがて、夜警の掃討作戦が始まった。

 都市の地下は少しずつ、だが確実に制圧されていった。

 地下へと逃げ戻った怪人たちの残党はじりじりと追い詰められていった。


 気がつくと、キンクの潜伏場所は夜警たちに包囲されていた。

 キンクは一か八かの強行突破を試みた。隊員三名を噛み殺して何とか包囲を脱したが、逃げる間際に魔術の集中砲火を浴びて傷を負った。

 怪我の治りは遅かった。不潔な環境のせいで傷口が腐り、黄色い膿があふれ出していた。化膿した傷口はずきずきと激しく痛み、全身が熱っぽくて寒気がした。

 彼は夜警から逃れるため、より深く、より狭い下水管へと潜っていった。



 今ならはっきりわかる。

 俺たちは利用されたのだ、ギレビアリウスの野郎に。

 一斉蜂起以降、ギレビアリウスは仲間たちの前にいっさい姿を見せなくなった。

 一緒に地下に逃げた怪人仲間の噂では、あいつは新市長の腰巾着に納まったらしい。

 俺たち怪人をさんざん暴れさせておいて、それを新市長お抱えの戦士たちで華々しく退治させる。自らはクリーンなイメージを保ったままで、政権を乗っ取る完璧な計画だ。その計画に協力した報酬に、ギレビアリウスの野郎は何を手に入れたんだろう。



 傷の悪化は進み、日々、気力と体力が奪われていった。

 キンクは意識がもうろうとし始めた。

 喉が渇いて仕方がないので、下水をがぶ飲みした。

 腹が減った。ここ最近、ゴキブリくらいしか口にしていなかった。


 せめて、人間に戻れたら。こんなドブネズミの姿で死にたくない。

 苦しい。悲しい。

 たすけて、誰かたすけて。



「お・に・い・ちゃ・ん」

 闇の中で、幼い少女の声がした。

 その声を聞いた瞬間、キンクは激しい恐怖に襲われた。

 声から逃げるように下水管の奥へ必死に後ずさる。


「どおしたの、おにいちゃん?」

「ひぃ……。く、来るな」

「待ってよう」

「ああ、やめて、やめてくれ、来ないで……」

 キンクを襲った恐怖の正体。それは彼の脳髄深くに刻み込まれた、懲罰的条件付けの効果だった。


 キンク・ビットリオ。本名ルーディン・カッソリオ。

 連続幼女誘拐殺人事件の犯人。

 三人の幼女を誘拐し、性的暴行を加えた末に殺害した男。

 その罰として埋め込まれた条件付けは、少女への激しい恐怖反応だった。



 体が金縛りにあったように動かない。気がつくと彼は失禁していた。

 暗闇の中から、少女が姿を現した。

 九歳くらいの娘だった。フリルのついたピンクのドレスを着ている。好奇心をむき出しにして、床に這いつくばるキンクを見下ろしている。その大きな瞳もピンク色だった。いや、瞳やドレスだけでない。髪や肌でさえも粘膜のような濡れたピンク色を帯びている。


「おにいちゃん、だいじょうぶ?」

「ひぃ……ひぃ……」キンクはもはや言葉を発することすらできなかった。

「かわいそう。そうだ!わたしがなおしてあげるね!」


 少女はキンクの上に身をかがめた。そして、粗い毛に覆われた顔面に小さな手を伸ばした。

 少女のてのひらが、溝鼠人間のひげに優しく触れ、鼻面から額にかけて、ゆっくりと撫で上げる……。

 と、次の瞬間、少女の指がキンクの目に深々と突き刺さった。

 指は眼球の脇を通って、深く、深く、頭蓋の中へと潜り込んでいく。

「あ……、ああ……、ああああ…」

 ぽっかりと開いたキンクの口から、よだれとともに言葉にならない喘ぎ声が漏れる。

 びくびくと全身が細かく痙攣している。


 やがて、少女は指を引き抜いた。

「どう、おにいちゃん。よくなったかな?」

「あ、うあ。あ……」キンクは事態が飲み込めず、ただ茫然と座り込んでいる。

「まだ、わたしのことが怖い?どう?」

「え……。あれ、あれ。怖くないぞ」

 どうしたことか、少女への恐怖は綺麗さっぱり拭い去られていた。まさか、条件付けが解除されたというのか。


「うふふふ。よかったね」そう言って肉色の少女は微笑んだ。

「あは、あはははは。やった、やったぞ。女の子が全然怖くない。俺は自由だ。自由なんだっ!」

 キンクはガッツポーズで叫んだ。

 長年、彼を呪縛しつづけてきた懲罰的条件付けは消え去った。

 それとともに、長い間忘れていた懐かしい感覚がむくむくと頭をもたげてきた。

 欲望。無垢な少女への目もくらむような性的欲望が。


 キンクは跳ね起きると、目の前の少女を押し倒した。

 もう我慢などできなかった。長い舌を伸ばし、少女の頬をべろりと舐めた。

「おにいちゃん、わたしがほしいの?」

 答えるまでもない。無言のまま片手でドレスを引き裂く。


「なら、ルーディンお兄ちゃんにお願いがあるの」

 ふいに本名で呼ばれて、彼は一瞬動きを止めた。

「……私の使徒になってくれる?」

 シトとは何だ。少し気になったが、数年ぶりに封印を解かれた欲情に押し流され、今はそれどころではなかった。

「ああ、何にでもなってやる!それより今すぐお前の体をよこせ!」


「うふふ、ありがとう。これでお兄ちゃんは私の三十七番目の使徒だよ」

 キンクの体の下で、突然、少女は形を失った。それはぶよぶよとした肉塊に変貌し、キンクの全身に絡みついてきた。必死に引き剥がそうとするが、毛皮にへばりついて決して外れない。


「な、なんだこれは。くそ、放せっ」

 一分前まで少女だった肥大化した肉塊は低く醜い声で言った。

「ルーディン・カッソリオ、お前はこれより魔王の使徒として生まれ変わる……」

 全身を引き裂かれるような激痛が走った。

 キンクの絶叫が地底の闇にこだました。

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