第70話 掃討作戦
シャモスはその日も下水道に潜っていた。
連日の下水潜りで、体にはすっかり異臭が染みついてしまっていた。
こんな目に遭うのなら、ワタナベなんかに情けをかけるんじゃなかった。彼女がそう思うのはいったい何度目だろう。
行政局が消滅したあの「災いの日」、怪物が都市を襲撃した。
そこにはミノタウロスやバジリスク、ナックラビーなどといった伝説レベルの強力な魔物たちもいた。これに率先して立ち向かったのが、自由意志で立ち上がった冒険者たちだった。彼らは犠牲者を出しながらも凶暴な魔物たちを討ち取ったという。彼らはその後、自由騎士団と呼ばれることになる。
その時、夜警は行政局の消滅という異常事態により、大混乱に陥っていた。そして初動が遅れた。
本来、真っ先に怪物たちに立ち向かい都市を守るべき夜警が、寄せ集めの冒険者ごときに遅れをとったことは、シャモスも組織の一員として忸怩たる思いがあった。
ハルビア総隊長は名誉を挽回するため、怪物たちの本拠と思われる地下迷宮を強襲したが、それでも一度失われた市民の信頼を取り戻すことはできなかった。
それに、ダークエルフ脱走事件が追い打ちをかけてしまった。
この件はとくに暫定政権、実質的には新市長ノムラの不興を買った。
制裁は厳しかった。ハルビア総隊長は責任を取って辞任し、かわりにボズム大隊長がトップに就いた。さらに予算を大幅に減額され、規模も縮小された。
それでも足りないとばかりに夜警に申し渡された新たな任務は、下水道に潜む怪物の駆除だった。
怪物の多くは自由騎士団に倒されたが、まだかなりの数が地下に潜伏して生き延びている可能性があった。
「きみらの組織は信頼回復のため、泥水の中を這いずりまわって一から出直すことだな」ひたすら平伏するボズム新総隊長に向かって、ノムラ市長はそう言い放ったという。
確かにダークエルフは危険な第一種駆除対象種族とされている。
だが、ここまで大騒ぎするほどのものだろうか。シャモスは内心そう思っていた。少なくとも、ワタナベが助け出したあの女はさほど凶悪そうには見えなかった。
「……ところで、こんな噂をご存じですかな」
その声に、シャモスの意識は現実へと引き戻された。
夜警隊員たちを先導する下水道清掃業者のガノトという男の声だった。
「どんな噂だ」
同行する夜警隊員のラウスが言った。シャモスとペアを組まされることが多い先輩隊員だ。
「『スライムはその昔、行政局が下水道に意図的に放った外来生物だ』って話ですよ。私らの業界内では以前からまことしやかに噂されてましてね……」ガノトは言った。
「まさか。いったい何のために行政局がそんな事をする」ラウスが言った。
「今日では、スライムと言えば下水道を詰まらせる迷惑な生物というのが一般的な認識なわけですが、一昔前はそうじゃなかったのです。はじめ、スライムは何でも食べて分解してくれる、自然界の掃除屋という触れ込みで世間に紹介されたんですよ」
「へぇ、そうだったのか」
「私がこの仕事を始めた頃、下水道にスライムなんておりませんでした。昔は下水管といえば油脂の塊で詰まったものです。下水に流された油がベタベタした塊になって、それに紙屑やら生理用品やら下着なんかのボロ布まで絡み合って、でっかい塊になって下水管を塞ぐことがよくありました。あれを取り除くのは、控えめに行ってもかなり大変な作業でしたよ。そこで行政局の担当部署では対策をいろいろと研究していたようです」
「そこでスライムに目を付けたと」
「はい。あれは本当に何でも食べますからね。有機物であれば何でも。実際、スライムが下水道に出るようになってからは、油脂の塊は見かけなくなりましたよ。ですが、今度は増殖したスライムそのものが下水管を詰まらせ始めたのです。何のことはない。スライムが油脂の塊を食べて、それがそっくりそのままスライムの肉になったというだけの話です。まあ、行政局のお役人は『うちは関与していない』の一点張りで絶対に認めませんでしたが」
「行政局そのものが消滅した今となっては、真偽のほどは確認しようがないな」
「たしかに」
一行は膝まである汚水の中を進んでいった。
これまでにシャモスたちのチームが下水道内で遭遇した怪物の数は七体。そのうち仕留めたのは五体だった。
内訳は全長二メートル近い巨大な蛭一体と、骨蜘蛛二体、それにスイカほどの大きさの目玉の化け物が一体。ガノトによるとこれら三種は、いずれも昔からこの都市の下水道に棲みついている怪物だという。
目玉の化け物はまるで巨人の眼球が視神経を脚がわりにしてずるずる這いまわっているかのようで、これまでシャモスが見た中で最も気持ち悪い怪物だった。雷火魔術で撃つと、そいつは白い体液をまき散らして粉々に吹っ飛んだ。
長年、下水道に潜ってきたガノトはもっとおぞましいものも見たことがあるという。
「あれは十五年ほど前の事でした。場所は市立病院が建っていたあたりの地下でした。私は人間の手首が下水に浮かんでいるのを見つけました。怪物に襲われた浮浪者なのか、それとも殺人犯がバラバラにして遺棄したものなのか、ごくまれに人体の一部が下水道で見つかることがあります。その手首もそういった死体の一部だと、はじめ私はそう思いました。
ですが、その白い手首は動いていたのです。そいつは壁にしがみつくと、まるで蜘蛛のように指を動かして素早く上に登っていくではないですか。そいつを追って天井を見上げた私は驚きました。そこには他にも同じような手がびっしりとへばりついていたのです。何百という人間の手が。
あれはいったい何だったのか。アンデッド化した死体の一部が独立した生物に変異し、繁殖したもの、といったところかもしれません。見たのはその時だけで、その後、二度と見かけることはありませんでした」
倒した五体のうち、残り一体は、いわゆる○○人間の類の怪物だった。
おそらく、地下の街に住んでいた最下層民の成れの果てだ。
遭遇したのは昨日のことだった。それは団子虫人間とでも言うべき怪物だった。背中は節に分かれた甲殻に覆われていて、うつ伏せになっていると巨大なダンゴムシにしか見えなかった。だが手足は二本ずつで人間に近い体型をしていた。
ほとんど水が涸れた暗渠に潜んでいたそいつはシャモスたちに気づくと、その場でくるりと身を丸めた。そして黒い大玉となって転がってきた。
シャモスたちは魔術で応戦したが、全身を包み込む鉄壁の甲殻が一切の攻撃を弾いた。砲丸のように突進してくる怪物に激突され、隊員の一人は頭の骨を折る重傷を負った。逃げ場のない狭い地下では恐ろしい攻撃だった。
「ガノトさん、そのスコップを貸してくれ!」ラウスが叫んだ。
下水清掃員のガノトからスライム除去用スコップを受け取ったラウスは、その刃先を団子虫人間の殻の狭い隙間に突っ込んだ。ぴったり閉じていた殻がこじ開けられて数ミリの隙間が開いた。
「シャモス!火炎魔術だ!」
彼女は先輩に命じられた通り魔術を放った。わずかに開いた隙間から侵入した魔術は内部から怪人を焼き尽くした。
あの団子虫人間もきっと元は人間だったのだ。ワタナベと同じように。
ひょっとしたら、こちらの言葉だって理解できたのかもしれない。
もしそうなら、戦いを避けられた可能性もある。
意図せず怪物になってしまい、ひとり地下で途方に暮れていた哀れな奴だったのかも。
シャモスとしては珍しくそんな事を考えた。




