第69話 凶人
ゾルス・ロフは洗面台で手を洗っていた。
水道の蛇口からほとばしる水が、両手にべったりとついた真っ赤な血を洗い流していく。赤く染まった水は渦を巻いて次々と排水口に消えていった。
洗面台には刃物や鈍器も並んでいた。
ナイフ、鉈、ハンマー、手斧。いずれも血塗れだった。
ゾルスは洗面台の上にかかった鏡を見た。
うっすらと無精ひげを生やした金髪の男。顔には自信があった。単にハンサムなだけでなく、陽気で親しみやすい雰囲気がある。彼は鏡の中の色男に微笑みかけた。笑みを返す顔には点々と血飛沫が散っていた。
このルックスと例の「魔術」のおかげで、彼は女に不自由したことがなかった。
実際、つい先ほども、彼はひとりの女と楽しいひとときを過ごしたばかりだった。
その女の名前は知らなかった。
何度か聞いたような気もするが、まったく思い出せない。名前なんてどうでもいい。彼はいつも女の人格や内面にはまるで興味がなかった。
その女と出会ったのは市場だった。
買い物鞄を手に提げ、ブラウンの髪をお下げにした純朴な感じの娘。何より気に入ったのはおっぱいのでかさだった。ゾルスはその女を今回の標的にすることにした。「こんにちは。お買い物ですか?」彼は何気ない様子でその女に話しかけた。
数分後、彼はその女と一緒にカフェに入ることに成功していた。
席に着くなり、女は堰を切ったように話し出した。
ゾルスはさも興味があるかのように女の話に相槌を打った。だが本当はまるで聞いてなどいなかった。女は勝手にしゃべり続けた。あげくのはてに、心に秘めた悩みまで打ち明けだした。平凡でつまらない苦悩の数々に、思わず欠伸が出そうになった。女は退屈そうな彼の様子にまるで気づかず、目尻に涙さえ浮かべて切々と内面を吐露し続けた。
話がひと段落したところで、ゾルスは女を自宅に誘った。女はあっさりとついてきた。
会ったばかりの赤の他人になぜこれほど心を許してしまうのか、女は最後まで疑問に思わなかったようだ。信じがたい馬鹿だ。もし、自分の反応に疑問を抱けるほど客観的な思考の持ち主だったなら、もう少し長生きできただろうに。だが、それができないのが女という生き物だ。
ゾルスはかつて、食肉処理工場で働いていた。
運ばれてくる豚を殺し、肉に加工する仕事だ。
その職場では、悲鳴を上げて逃げ回ろうとする豚を大人しくさせるために単純な精神魔術を使っていた。加工場ではそれを「豚の魔術」と呼んでいた。魔術をかけられた豚は相手を全面的に信頼してどんな指示にでも従うようになる。効果はてきめんで、豚たちはきちんと行列に並び、待ち受ける死に向かって自分の足で進んでいった。
彼には魔術の才能があったのか、豚の魔術をすぐに習得した。
豚の魔術を人間に向けて使ったら、どうなるだろう。
ある日、ふと思いついた彼は、隣の部屋に住む女に使ってみた。
結論。その魔術は人間にも有効だった。
それ以来、何人もの女が術の有効性を証明し続けた。
豚の魔術は女にはよく効いた。だが不思議なことに男には決して通じなかった。
男に向けて使おうとしたのは一回だけだった。標的は職場の同僚だった。そいつは粗暴な男で、仲間たちと一緒になって大した理由もなくゾルスを殴った。
ゾルスは復讐を思い立った。こっそりと豚の魔術をかけて、解体機械にダイブさせてやろう。
途中までは上手くいったものの、寸前で術の効果が消えた。そしてそいつは何が起きたのかを瞬時に悟った。怒り狂った同僚に袋叩きにされて、ゾルスは歯を五本失い、顎と肋骨を骨折し、そして職場から叩き出された。
ゾルスは思う。
女とは人間というよりもむしろ豚に近い存在なのだろう。
だから単純な豚の魔術ごときにあっさり操られる。
学の有無も関係ない。国立魔術学院の見習い魔道士の少女を餌食にしたこともある。自分のような低学歴が使う低級魔術に簡単にしてやられてしまうなんて、いったい何をお勉強してきたんだか。彼は内心呆れつつ少女をバラバラに切り刻んだ。
ゾルスの部屋の隅には大きな桶が置かれていた。
人ひとりがすっぽり入れる大きさで、密閉式の蓋が取り付けられている。彼の手作りだった。これもまた食肉加工場で得た技術だった。加工場では肉を切り取った後に残る屑、すなわち骨や内臓、脳や軟骨等を溶解魔術でドロドロに溶かし、そこからコラーゲンや油脂などを抽出していた。残った滓は肥料の原料として売れた。
その技術を応用して作ったのが、自前の死体処分装置だった。
その中に楽しんだ後の女の残骸を放り込み、溶解魔術を発動させる。そのまま一昼夜放置しておけば、桶の中で女の体はすっかり分解し、赤黒いどろりとした液体になっているのだった。
桶の中では、ぶつ切りにされたブラウンのおさげの女の体が早くも蝋燭のように溶けはじめていた。
次の日。桶の蓋を開けて女がすっかり溶けていることを確認したゾルスは、桶の下部に取り付けられたコックを開いた。接続されたホースを通し、女だった液体は排水口に流れ出していった。最後に、底に残った小さな骨片や歯を拾い、ハンマーで砕いて捨てた。これで殺人の痕跡はきれいさっぱり消え去った。
ソファに寝そべり昼間から酒を飲んでいると、ごぼごぼと妙な音がした。
トイレからだ。
また排水管が詰まったのか。このボロ家め。ゾルスは悪態をつきながら様子を見に行った。
トイレの扉を開けると、そこに昨日殺したおさげの女がいた。
女は便器の中に立っていた。
「あん?なんだこいつ。化けて出やがったのか?」
「…………」女は無言だった。
女は顔も体も粘膜のような薄いピンク色で、全身がぬらぬらと濡れていた。
まるでスライムでできているかのようだ。
ゾルスはいったんトイレを出た。
戻ってくると、いきなり手斧の刃を女の首に思いっきり叩きつけた。
ひとたまりもなく女の頭部は切断され、彼の足元に湿った音を立てて転がった。
「これでどうだ、ははっ」
「……ゾルス・ロフよ」
蹴飛ばそうとした時、首がしゃべった。
女の声ではなかった。聞くに堪えない醜い声で、まるでゲロを吐きながらしゃべっているようだ。
「はあ、なんだぁ?」
「……お前はなぜ人を殺す」
「え、なぜって。そりゃ楽しいからさ。女を殺して切り刻むのより楽しいことなんてあるかね」
「なるほどな。予想通りの邪悪な男だ……」
「何者だ、あんた。俺のこと知ってるのか」
「私は魔王だ。お前のことは何でも知っている。昨日何を食べたのか。どんな持病を抱えているのか。そして、これまで何人の女を殺したのかも」
「へえ、魔王さまねぇ……こりゃびっくりだ」
「お前の邪悪さ、人間への悪意と憎悪、気に入った。これよりお前を我が第一の使徒に任ずる」
「そりゃありがたいことで。……で、使徒ってのは何です」
「我に仕え、地上において我が意思を代行する者のことだ」
「よくわかんねぇな。具体的に何をすりゃいいんだ」
「殺し続けるのだ、可能なかぎり多くの人間を。残酷に、苦痛を与えてなぶり殺しにするのだ」
「へへっ、お安い御用です」
「見返りとして、お前には力を与えてやろう。決して死なず、どんな場所へも自由に侵入できる能力を」
「ほう、そりゃ便利ですな。で、どうやったらその能力はもらえるんで」
便所の床に転がる女の頭部は説明した。
ゾルスが幼い頃、母親が新しい男をこさえて家に連れてきた事があった。そいつは働きもせず家に居ついて、ゾルスや母親をよく殴った。母親がいない時にそいつはゾルスを強姦した。何度も何度も。その時の記憶が甦った。
「くそ……他に方法がないのかよ」
「ない」
ゾルスは覚悟を決め、ズボンと下着を降ろして床に四つん這いになった。
痩せこけた白い尻がむき出しになった。
「おら、脱いだぞ。やるならさっさとやりやがれ」
女はずぶずぶと溶けるようにして形を失い、一本の太い蚯蚓のような姿になった。
次の瞬間、ゾルスの全身を激痛が貫いた。彼は苦痛に苛まれながら新しい存在へと生まれ変わっていった。




