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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅲ部
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第68話 CELL―細胞―

 その細胞は、生温かい水の中を泳いでいた。

 表面に生えた繊毛を波打たせ、くるくると回転しながら活発に泳ぎ回る。


 栄養分は周囲に満ち溢れていた。

 蛋白質、アミノ酸、糖分、脂肪酸。細胞が求める栄養素は周囲の水の中に豊富に含まれていた。細胞は思う存分それらを取り込んで代謝し、成長し、そして分裂した。



 その細胞は始め、ある女性の子宮内に寄生していた。

 その女性の名は、秋本紗英。勇者の妻である。


 魔王と勇者の最後の戦いの後。

 死ぬゆく魔王の断片は最後の力を振り絞り、紗英の体内に細胞を送り込んだ。

 目的は受精卵に融合すること。

 やがて、勇者とその妻の子供へと育つはずの受精卵に融合し、魔王の遺伝子を送り込む。

 目論みが上手く行ったなら、祝福を受けて産まれてくるはずの勇者の子供は、魔王の遺伝子で穢され心身共におぞましい怪物になってこの世に生を受けたことだろう。

 その様子を想像しながら、魔王ユスフルギュスの断片は死滅した。


 だが、魔王の遺志は成就しなかった。

 理由は定かではない。

 魔王の細胞が弱体化しすぎていたのか、母体のホルモンバランスが崩れたのか、父親となる勇者の精子の数が少なかったのか。細胞が寄生している間に卵子の受精は起こらず、やがて細胞は母体の月経とともに体外に排除された。そして細胞は下水管に流れ込んでいった……。




 下水道は温度、栄養分ともに申し分なく、母体内と同じくらい快適だった。

 細胞は気ままに増殖を繰り返した。

 だがそこには敵がいた。線虫、アメーバ、ワムシ、クマムシ。全長1ミリにも満たないミクロの世界の捕食者たちだ。下水の中には誰も知らない小さな食物連鎖が存在していた。さらには細胞を崩壊させるウイルスまで蔓延していた。せっかく増殖した細胞のほとんどはそれらの餌食となって消えていった。


 だが、ごく一部の細胞は生き延びた。

 鋭い棘を生やしたり、殻をまとったり、毒素を生産したり、それ以前には持っていなかった特性を新たに発現させたものたちだ。それは進化だった。魔王の細胞は通常の生物をはるかに超える高い確率で突然変異を生み出し、急速に進化していった。


 そして、いつしか食う食われるの関係は逆転した。

 魔王細胞はかつて自分たちを襲っていた獲物を求めて下水管の底を這いまわった。しかし、それでもまだ敵は存在した。ハエやカの幼虫、イトミミズ、それにスライムなどといった汚水の中に住むさらに大きな生き物が。


 特にスライムは脅威だった。

 下水管にへばりつき、表面に付着している細菌や微生物を腐敗した汚泥もろとも溶かして食べてしまう。進化した魔王細胞もスライムには敵わなかった。


 だが、そんな圧倒的なスライムに対してさえ、魔王細胞は適応した。

 新たにとった手段は共生だった。スライムの細胞内に潜り込み、そこで増殖したのだ。もとはといえば人間の受精卵への寄生を目論んでいた魔王細胞にとって、他の生物の体内への共生はお手の物だった。人間と違い免疫系から攻撃されることもないスライムの内部は新天地だった。


 共生への見返りとして、魔王細胞は宿主であるスライムに優れた知覚能力を与えた。

 言うまでもない事だが、単純な神経細胞と乏しい感覚器しか持たないスライムは下等な生物だ。光から逃げ、餌となる腐敗した有機物の匂いに誘因されるゼラチン状の塊に過ぎない。だが細胞が共生したスライムは違った。感覚細胞を通して周囲の環境の様々な情報を取り込み、他のスライムよりもいち早く餌を見つけられるようになったのだ。やがて、魔王細胞が共生したスライムは、普通のスライムを生存競争で打ち負かしていった。


 スライムとの共生で膨大な数に増えた魔王細胞は、テレパシーによって相互に結びつき、あたかも神経細胞のように情報を伝達しあった。下水管の内壁に分厚くへばりついたスライムの層は、いわば魔王の脳にも等しいものに成長つつあった。



 下水道内に広がるスライム/魔王の脳の意識はまどろみながら、生温かい汚水に溶け込んだ様々な物を味わった。

 風呂の水に溶けた汗や垢、尿、糞便、嘔吐物、髪の毛、残飯、経血、脂、それに工業廃水に含まれる薬物まで。どれも人間の体やその活動が生み出した穢れだ。

 人間は自らが浄化されるために、水に穢れを捨て去る。透き通った清浄な水も、いったん人間の穢れを移されると、灰色や茶色に濁り悪臭を放つまでに汚染される。


 下水に溶けているのは汚物だけではなかった。

 人間は感情が高ぶると体から様々な水を流す。

 悲しめば涙や鼻汁を流し、怒れば汗を流し、恐怖すれば失禁する。さらに欲情が高ずれば愛液や精液まで流す。これはオーバーフローした感情を水に溶かして体外に排出するためだ。水は霊的にもすぐれた溶媒だった。下水にも様々な感情が溶けて流れていることにスライム/魔王は気がついたのだ。


 嫌な労働に向かう朝の小便に溶けた憂鬱、余命わずかな老人の流す絶望の脂汗。美しい娘への切ない片思いを含む精液。孤独な中年女が酔って吐き戻した胃液……。下水は感情と記憶の坩堝だった。スライム/魔王は下水を通して、地上に広がる都市に住む人々のことを知っていった。


 ある時、スライム/魔王はこれまでにないものを味わった。

 若い女の濃厚な恐怖と絶望を含んだ、大量の血液と脂と肉汁。

 それは下水を赤黒く染めて流れ去っていった。


 いったい、今のは何だったのだ。

 魔王/スライムは関心を抱いた。そして待った。

 数か月後、再び同様の赤い液体が流れてきた時、魔王/スライムはその一部を流れの源へと送り出した。

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