第67話 夜の旅
東の空が白み始める頃、俺はようやく立ち止まった。
ガエビリスを抱きかかえたまま夜通し走り続け、ついにここまで辿り着いた。
人里離れた山中の峠道だった。辺りには一軒の人家もない。
早朝の空気は肌寒かった。
眠るガエビリスをゆっくりと大木の洞の中に降ろすと、俺は後ろを振りかえった。
眼下に広がる平野部には都市が横たわっていた。
この時間、都市はまだ朝もやに包まれて深い眠りに就いていた。
この標高から見下ろした都市は、まるでゴミとガラクタの集積物のように見えた。何本かの黒い川が緩やかに蛇行して流れ、彼方の海へと都市の汚濁を注ぎ込んでいた。
そう言えば、秋本たちと一緒にこの都市にやってきて以来、一度も外へ出たことがなかったな。なんで俺はあんな汚い場所に居続けたのだろう。それが自分でも不思議だった。
だが、そんな日々も終わった。
もう二度とあの場所に戻ることはないだろう。
俺は都市の風景に背を向けた。
ガエビリスは木の洞の中ですやすやと眠りつづけていた。
これから日が昇る。
日光がダークエルフにどんな作用を及ぼすのか詳しい事は知らないが、明るい場所が苦手なことは間違いないだろう。このまま暗くなるまでここで休ませて、夜になってから移動を再開しようと決めた。
それに、俺も一晩走り続けてクタクタだった。休息が必要だ。
俺は身を縮めて洞の中に這いずり込むと、彼女の隣にあいた狭いスペースに膝を抱えて座った。ガエビリスの安らかな寝顔を眺めながら、この先、いったいどうしようかと考えているうちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
夜の森でフクロウが鳴きはじめた頃、ガエビリスが目を覚ました。
彼女は大きく伸びをすると、突然、無言のまま木の洞の外へと出ていった。
俺も急いで後を追う。
彼女はすたすたと一直線に歩いていく。
まさか、地下迷宮にいたときのような異常な状態に戻ってしまったのか。
しかし、ガエビリスは急に立ち止まると振りかえって言った。
「何よ、ついて来ないでよ。……ちょっとトイレに行きたくなっただけなんだから」
「…………」
彼女は灌木の茂みの後ろに消えた。しばし後、さっぱりした顔で戻ってきた。
そりゃそうだ、ダークエルフも用くらい足すよな。
食事は昼間、彼女がまだ眠っているうちに探しておいた木の実だった。
俺は柿のような味のするその実をガエビリスと分け合って食べた。
「もう、あの街には戻れないよね」彼女が言った。
「…そうだろうな。第一種駆除対象種族のダークエルフと、その逃亡を助けたローチマン。今ごろ夜警は血眼になって探してるだろうな…」
「それに、私は兄にも追われてる」
「…ギレビアリウス、か…」
「知ってるの?」
「…リゲリータから聞いたんだ。君が地下の街に戻ってきたお兄さんに酷い目に遭わされてるらしいって。そこで俺は昔の仲間と一緒に君を助けに行ったんだ…」
「そうだったの……」
「…ちょっと紆余曲折はあったけど、こうして君を助け出すことができた…」
「ありがとう、ワタナベさん……」
彼女は伏し目がちに礼を言った。
その目の下には濃い隈ができていた。
ガエビリスもあの都市に戻ることを望んではいなかった。
都市からできるだけ離れ、どこか人の目に付かない場所でひっそりと暮らそう。
俺たちは二人でそう決めた
ただ、残してきた弟のリゲリータのことが気にかかっているようで彼女の表情は決して明るくなかった。
俺たちは夜の山道を歩いた。
触角や感覚毛のおかげで視覚に頼らず進めるローチマンの俺と、暗闇でも見えるガエビリスの目をもってすれば簡単なことだった。だが、彼女はまだ体力が回復しきっていなかったので、その晩は二時間ほどだけ歩き、近くで見つけた岩陰で休憩した。
次の日も、そのまた次の日も俺たちは昼間眠り、夜に歩いた。
少しずつ彼女の体力は戻りつつあったが、地下の街で暮らしていた時に比べて明らかに元気がなかった。
「やっぱり、外は苦手だなぁ……。まわりに壁も天井もない場所はやっぱり落ち着かないわ。空気も乾燥しすぎてて肌がヒリヒリするし。もっと暗くて狭くてジメジメした所のほうが好きだな」
「…ダークエルフって、みんなそうなの?…」
「わからない。私が知ってる唯一のダークエルフは、……ギレビアリウスだけ。リゲリータがダークエルフだったのはほんの赤ちゃんの頃だけだった」
「…他に家族は?お父さんやお母さんは?…」
「いない……」
それきり、彼女は口をつぐんでしまった。
あれから何日経っても、何回眠っても、俺は人間の姿に戻らなかった。
俺は理解していた。自分の体に何が起きたのかを。
変身した直後に感じていたあの激痛、あれは拒絶反応だったのだ。
以前聞いたハルビア総隊長の説明をもとにして自分なりに考えた結論だ。
紗英さんの『治療』の結果、俺の体からガエビリスのウイルスが取り除かれ、免疫系が復活した。
だが、ゴキブリ細胞は完全に消滅していなかった。
俺はそのゴキブリ細胞を増殖させてしまった。ウイルスを欠いた状態でのゴキブリ細胞の増殖は全身に過剰な拒絶反応を引き起こした。それが人間細胞をさらに衰弱させ、生命力に優れたゴキブリ細胞に有利に働いた。そして癌細胞のように増殖するゴキブリ細胞が俺の全身を侵食していった。
以前のような一時的な変身とは明らかに違い、たぶん俺はもう人間には戻れないだろう。
だけど、そんな醜いゴキブリ人間の俺を、ガエビリスは少しも嫌悪しなかった。
むしろ、人間の姿だった時よりも親しく接してくれているような気さえする。
昼間は日の当たらない岩陰や小さな洞穴で身を寄せ合って眠り、夜は手を取り合って歩いた。
彼女が受け入れてくれるのなら、残りの一生ずっとこの姿でも構わない。
俺はそう思い始めていた。
都市を出て十日後。
俺とガエビリスは廃墟に出くわした。
その廃墟は生い茂った草に覆い隠されていた。先に進んでいくと、さらに多くの家々が丈の高い草に埋もれるようにして立ち並んでいた。そこは打ち捨てられたゴーストタウンだった。半月が浮かぶ夜空の下、俺はガエビリスと草をかき分けながらその町を探検した。
「かなり大きい町だったみたいだね」ガエビリスが言った。
「…人がいなくなってから、十年以上経ってるように見えるな…」
俺たちはかつて大通りだったらしい舗装された道の残骸に立っていた。
粉々に砕けた路面からは雑草が噴き出すような勢いで伸びている。右手の広場には時計台の残骸が月光を浴びて白っぽく浮かび上がっていた。
家々は損傷が激しく、屋根が崩れ落ちたり、完全に崩壊して瓦礫の山と化しているものもあった。そして所々には人骨も散乱していた。
「…どうやら、魔王群に襲われた町の跡みたいだな」
勇者・秋本が魔王を倒す以前。世界各地の町は魔王群と呼ばれる魔物たちの襲撃に怯えていた。大都市と違い、都市結界などの自前の防衛手段を持たない中小都市がとくに標的となった。魔物たちはある夜突然大群で襲いかかり、住人たちを皆殺しにした。
ここは悲惨な過去を持つ呪われた場所だった。
ガエビリスも早々とこの廃墟を立ち去るのに異存はなかった。
俺たちは旅を続けた。




