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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅱ部
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第63話 形勢逆転

 最初の一撃は完璧な不意打ちだった。

 鉤爪を振りかざして倉本に飛びかかろうとしてたガエビリスに、俺は痛烈な一撃を見舞った。ガエビリスはとっさにブロックしたものの、俺の拳を受け止めた衝撃で右手の鉤爪が何本か折れた。ガエビリスは後に跳んであわてて距離をとった。


 俺の参戦で、形勢は一気に俺たちの有利に傾いた。

 俺と倉本は協力して、左右からガエビリスに迫っていった。

 そのままうまく行けば、倉本と協力してガエビリスを追い込み、取り押さえる事も可能だったろう。


 だがそれも、俺が以前のように完全な状態で変身できていればの話だった。

 やはり無理な変身は俺の肉体にかなりの負担をもたらしていた。限界はすぐに訪れた。全身の痛みは激しさを増し、手足は硬直して動かなくなり、目の前には暗い斑点が踊りはじめた。もう戦うことはおろか、立っている事さえできなかった。俺は床に膝をついた。


 ごめん、やっぱり俺では無理だった。

 俺は心の中で二人に詫びた。



 ガエビリスはすでに体勢を立て直していた。

 その時、俺は周囲に広がる迷宮の闇がもはや無人ではないのに気づいた。いつの間に現れたのか、そこにはおびただしい数の怪物たちがひしめいていた。百足人間、(ヒル)人間、(イタチ)人間、亀人間……、かつての地下の街の住人の成れの果てだ。それに巨大な水龍(ヒュドラ)や、蛭の化け物のような巨大な蠕虫(ワーム)までいる。こいつらは元人間ではなく、根っからの魔物だ。

 俺と倉本は怪物どもの群れに包囲されていた。


「増援か。厄介なことになってきたな、渡辺」

「…………」

 俺は倉本にメッセージを伝えようとしたが、もはや触角を1ミリ動かすことさえできなかった。



 怪物どもの群れの中から、巨大な百足の怪物が進み出てきた。

 百足の頭部に相当する場所に筋骨隆々たる男の上半身が生えている。その後ろには黒光りする外骨格に覆われた胴体が長々と続いていた。その全長は十メートル以上におよぶだろう。百足人間は毒々しい黄色の脚を波打たせるように動かして歩み寄ると、ガエビリスの前で身を伏せた。彼女はその背中にまたがった。

 ガエビリスを乗せた百足人間は、鎌首をもたげるようにして高々と体の前半分を持ち上げた。



 怪物どもはじりじりと包囲の輪を狭めてきた。

 いっせいに飛びかかって、俺たちを八つ裂きにするつもりなのだろう。

 怪物たちは、はじめの頃に地下の街で出会った蛞蝓(なめくじ)人間やゲジ人間よりも手強そうに見えた。しかもこの数だ。一体一体であれば倉本の敵ではないのかもしれないが、同時に襲いかかってこられたら……。


 魔法光の届く範囲に入り、怪物どもの姿がよりはっきりと見分けられるようになった。

 汚らしい毛皮につつまれた鼬人間は、とがった牙をむき出しにして獰猛な笑みを浮かべていた。分厚い甲羅を背負った亀人間は全身汚泥まみれで、強烈なヘドロの臭気を放っていた。きっと汚泥の底にでも潜っていたのだろう。ピンク色の蛭人間の頭部には目も鼻もない。顔の真ん中に吸盤のような丸い大きな口があるだけだ。その口が開いたりすぼまったりするたびに、中に並ぶ鋭い牙が見え隠れする。


 異形と化したこいつらも、かつては地下の街に住む普通の人間だったのだ。

 そもそも、かくいう俺自身がゴキブリ人間ではないか。

 外見の醜悪さでは決して彼らに引けを取らない。だったら彼らと俺は同じ存在じゃないか。

 何とか彼らと話し合って戦いを避けることができないだろうか。


 だがその希望も、彼らの目を見て失われた。

 ガエビリスと同じく、彼らの硝子玉のような瞳には何の感情も知性も宿っていなかった。



 倉本は床に倒れた俺をかばうようにして、すぐそばに立って身構えている。


 何の前触れもなく、怪物たちはいっせいに襲いかかってきた。

 倉本は縦横に刃を振い、襲い来る敵を次々に切り捨てていった。さらには攻撃魔術を矢継ぎ早に連発した。発雷、爆裂、旋風刃、火球、そして光の槍。魔術の直撃を受けた怪物はバラバラになって吹き飛んだ。倉本はまさに破壊の渦だった。俺たちを中心とした半径三メートル以内に侵入しようとした敵はことごとく倒された。


 だが、怪物の数はあまりに多すぎた。

 対して、たった一人で戦う倉本は疲労の極みにあった。

 怪物たちの猛攻を食い止めていられる範囲は少しずつ狭まっていった。


 そしてついに防衛圏は突破された。一瞬の隙をついて、茶色い毛皮の鼬人間が侵入し、倉本の上腕からごっそりと肉塊を齧り取った。続けてもう一体の鼬人間、白い毛皮のやつが倉本の頬から肉片をちぎり取った。倉本はすぐさま反撃した。茶色鼬は即死させたが、白鼬には逃げられた。


 倉本の頬と腕に開いた穴からは血が噴き出していた。

 傷を治す時間を稼ぐため、倉本は魔術で防壁を展開した。しかしそれが持ちこたえたのはほんの一瞬だけだった。体重数百キロに達するであろう亀人間の渾身のタックルで魔術の壁はたわみ、そして砕け散った。亀人間は鱗に覆われた腕を倉本めがけて振り下ろした。鋭い爪が倉本の顔面を切り裂いた。鮮血が飛び散り、足元で横たわる俺に降りかかった。

 さらに亀人間は大きく口を開き、鋭い口で倉本の頭部を咬み切ろうとした。


 やめろ。やめろ……。

 俺はやっとのことで腕を動かし、木の幹のように太い亀人間の足をつかんだ。手の力は弱々しかったが、とにかくその動作で倉本への咬みつきを中断させることができた。

 かわりに亀人間は俺を攻撃対象に選んだ。亀人間はごつごつした鱗の並ぶ頑丈な足を、仰向けで横たわる俺の腹部にそっと乗せた。そして一気に全体重をかけた。たちまちメキメキと音を立てて俺の外骨格がひび割れ、口と尻からぶちゅっと音を立てて体液が噴き出した。


 どんどん狭まりゆく視野の中心で、高くそびえ立つ百足人間にまたがったガエビリスは死にゆく俺たちを冷たく見下ろしていた。



 終わりだ。今度こそ終わりだ。

 この異世界に来てから、何度も死にかけた。一度は水龍(ヒュドラ)、二度目は闇の落とし子、三度目は夜警隊員たちに襲われて。

 これまでは辛うじて命をつなぐことができた。だが、今度こそ無理だろう。

 迷宮の奥で助けに来てくれる者は誰もいない。唯一の仲間は俺と同じく窮地に陥っている。今も巨大なヒュドラを相手に必死に戦い続けている。仮にヒュドラを倒せたとしても、あの百足人間が残っている。それにガエビリスも。


 俺の体内で内骨格が砕け、尻から腸が飛び出した。

 潰されて死ぬとは、まさにゴキブリにふさわしい死に様ではないか。

 死ぬときはせめて人間の姿でいたかった。



 その時、轟音が聞こえた。まるで遠雷のような音だ。

 怪物たちに動揺が走った。俺の腹に足を乗せている亀人間も何かに気を取られている。轟音はますます近く、大きくなり、いまや耳を弄せんばかりになっていた。百足人間の上で、ガエビリスも遠くを見つめている。やがて彼女を乗せたまま、百足人間が移動を開始した。その後に続いて、他の怪物、魔物たちも同じ方向に向けて動き始めた。

 ひときわ大きな轟音が三度とどろいた後で、迷宮全体を揺るがすような爆発音が響き渡った。天井からパラパラと石の欠片が降り注いだ。


 だが、亀人間はまだ俺の上から足をどけていなかった。俺をきっちり殺してから仲間たちの後に続くことにしたのだろう。とどめに俺の頭部を踏み潰そうと、亀人間は足を振り上げた。

 と、その時、何の前触れもなく亀人間の眼窩と口から激しい炎が噴き出した。炎は亀人間の頭部を一瞬にして黒焦げの頭蓋骨へと変えた。亀人間はぐらりとその巨体を傾かせると、地響きを立てて俺のすぐ横に倒れ込んだ。もしこいつが倒れたのが俺の真上だったら、俺は即死していたに違いない。



 仰向けに横たわったまま見上げる迷宮の天井が、ときおり閃光を反射して白く光った。さらに続けて炎の色に染まった。俺はやっとのことで首を動かし、轟音のする方向を見た。

 迷宮の奥が炎に包まれていた。燃え盛る炎のオレンジ色を背景に、怪物たちの姿は黒いシルエットとなって浮かび上がっていた。否、それはシルエットではなかった。怪物たちは焼き尽くされ、黒い彫像のように立ったまま消し炭と化していた。


 そして、怪物たち以外にも炎を背にした黒い影があった。怪物と違い、それらは生きて動いていた。それは隊列を組んで整然と進む軍勢だった。

 黒い甲冑、黒いブーツ、黒いマント。しかし手にした武器は金管楽器のような真鍮の輝きを放っている。

 夜警だ。完全装備に身を固めた夜警の強襲部隊。その人数は数百名に達するだろう。黒い甲冑で全身を隙間なく覆った姿は、ある種の肉食性の甲虫を思わせた。


 迷宮の闇を切り裂き、金色の火線が走り抜けた。射線上にいた怪物たちは瞬時に炭化し、石柱は高熱のあまり真っ赤に溶融した。黒い兵士たちは行く手にあるすべてを蹂躙しながら迷宮を進軍していった。

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