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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅱ部
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第56話 アラクネ

 巨大な蜘蛛は地響きを立てて着地した。

 落下の衝撃で、部屋に山と積まれていた空っぽのケージや水槽が倒れ、吹っ飛んだ。 

「危ない!」シャモスが俺を突き飛ばした。間一髪、さっきまで俺が立っていた場所に鉄の檻が降ってきてバラバラに壊れた。飛び散った柵の一本がまるで槍のように俺の耳元をかすめた。部屋中にもうもうたる粉塵の雲が舞い上がる。


「みんな大丈夫か」煙の向こうで倉本が咳き込みながら叫んだ。

「ああ、俺は無事だぞ」佐々木がすぐに応じた。

「私とワタナベ……さんも無事です」シャモスが言った。



「う、ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」

 部屋の奥から、腹の底に響くような低い笑い声が聞こえてきた。

「手荒な挨拶で、御免あそばせ……」


 舞い上がった粉塵が落ち着き、部屋の惨状が見えてきた。

 ケージや水槽はどれもぐしゃぐしゃに潰れ、原形をとどめない残骸と化していた。

 黒い大蜘蛛はその残骸の上に鎮座していた。

 巨大な腹部ははちきれそうなほど肥え太り、胴体から八方に伸びる脚はまるで大木の幹のように太い。体の表面はふさふさとした黒い体毛でびっしりと覆われていた。そして、頭部に並ぶ八つの赤い眼がこちらをじっと見下ろしていた。

 目を凝らして見ると、頭部の下の方には人間の顔のような模様があった。大きく横に広がった、髭だらけの粗野な男の顔だ。だがそれは単なる模様ではなかった。その顔は赤く肉感的な唇を動かし、野太い声を発した。


「わたくしはアラクネのポルミューフォシス。よろしく」

「……アラクネだと」

「うふふ、そう。わたくしは先祖代々の由緒正しき魔物。生まれはかの名高き南海の孤島ゴーン島。あなたがたが今まで戦ってきたような即製の、卑しい怪物人間なんかではなくってよ」


 それは素人の俺にさえわかった。こいつは今までの敵とは別格だ。

 アラクネと対峙する倉本と佐々木も緊張した表情を浮かべている。


 ゴーン島といえば、別名で悪夢島とも呼ばれる熱帯の無人島で、そこでは巨大生物や魔物たちが熾烈な生存競争を繰り広げていた。まれに漂流者が流れ着くことがあったが、一週間以上生存した例は皆無だという。海賊の秘宝が隠されているという伝説があり、それを狙って幾多の冒険者が島に挑んできたが、誰一人として無事に生きて帰った者はいなかった。

 その島のジャングルには、ゴライアス・ドラゴンイーターという巨大蜘蛛が棲息していた。小型の竜を捕食することからその名がついた怪物だ。その蜘蛛のうち、数百年を生き延び高い知能と魔力を獲得したものがアラクネと呼ばれる魔物になる。

 ミノタウロスだけではなかったのだ。ギレビアリウスは世界中から名だたる強力な魔物をこの都市に集めていたのだ。



「それにしても、惜しかったわね。もう少しで罠にかかってくれそうだったのにねぇ」


 巨大蜘蛛は鉤爪に引っかけて、残骸の中から壊れたケージのひとつを拾い上げた。それはガエビリスが監禁されていた檻だった。

 彼女は今もその中にいた。

 だがその時、彼女の体がほどけた。それは細い糸の塊に変わり、急速に巻き取られて小さくなっていった。気がつくと檻の中には何も残っていなかった。俺はその光景を呆然と見ていることしかできなかった。

 あれは偽物だったのだ。蜘蛛の糸で編んだ人形だったのだ。だが何のためにそんなことを。


 俺の考えを読んだかのようにアラクネが言った。

「彼女の人形はわたしの糸でできていたの。触れるとほどけて、一緒に織り込まれた鋼糸が触れた者をバラバラに切り刻むように仕組んでいたのに……台無しだわ」

 蜘蛛は空っぽになった檻の残骸を無造作に投げ捨てた。



「でも、ギレビアリウスが言った通りね。この子が勇者の仲間たちを連れてきてくれた」蜘蛛は低い声で言った。


「……どういう事だ」倉本がアラクネに言った。

「うふふ、教えてあげるわ。そもそもこれはあなたたちのために用意した罠だったのよ、勇者の仲間、クラモトとササキ、お前たちを捕えるためにな」

「何だと」佐々木が色めき立った。


「お前たちの存在はギレビアリウスの計画の障害になる恐れがあった。だから早いうちに排除する必要があった。それでここ、地の底に張った私の巣まで案内させたのだ、そこにいるワタナベにな」

 蜘蛛の口調はいつしか声に見合った男性的なものに変わっていた。


「…………」

 俺は驚きのあまり言葉もなかった。まさか、俺の行動はすべてギレビアリウスに仕組まれたものだったのか。そして、それが佐々木と倉本の二人を窮地に追い込んでしまったかもしれないのだ。何という事だ。


「……わざとローチマンのリゲリータを地上に逃がし、ガエビリス監禁の情報を意図的にリークすれば、きっと無力なワタナベはお前たちに泣きつくだろう。そして、お人好しのお前たちは浅はかにも彼の頼みを聞き入れ、のこのこと死地に飛び込んでくるに違いない。ギレビアリウスはそう言った。まさにその通りになった。勇者その人は来なかったようだが、まあ良い。お前たちを我が巣に閉じ込めるという目的は達した」



「……で、だからどうしたんだよ、オカマ蜘蛛。これで勝ったつもりか。俺たちを舐めるんじゃねえぞ」 

 佐々木がいきり立った。


「うふふふ、お馬鹿さん。何度も言ったように、ここはすでに私の巣の中なの」


「それがどうした。死ね」

 佐々木は手をかざした。手のひらに紅蓮の炎が燃え上がり……そして消えた。

「何だ、どうなってる」

 佐々木は悪態をつきながら何度も魔術を放とうとしたが、どの魔術もまったく発動しなかった。


「……封魔結界、か」苦虫を噛み潰したような表情で倉本が言った。



「うほほほほ、さすがよくご存じね、クラモトさん。そう、私の巣は結界なの。この中では何人たりとも魔術を使えないし、それに、過去にかけた魔術の効果も打ち消される。どういう意味かわかるか。お前たちを超人的な戦士に仕立て上げていた数々の自己強化魔術の効果もまた、打ち消されるということだよ。筋力、耐久力、反射速度。そのどれもが魔力による加護を失い、持って生まれた常人レベルの身体能力に戻るということだ。だが、くくく……その脆弱な肉体さえ、まもなく自由には動かせなくなる」


 佐々木は床に膝をついた。

 それに続き、倉本もしゃがみ込んで苦しげに息をしている。


「毒が効いてきたな。わたしが落下した時にこの部屋の中に立ち上った大量の粉塵、あれは実はわたしの毛の欠片だったのだ。それはミクロの毒針で、吸い込めば肺胞に突き刺さり、全身の神経を麻痺させる。お前たちはたくさん吸い込んだようだな。もはや立っていることもできまいて」



 アラクネは黒い脚を動かして残骸の山を這い降りてきた。

 そして、うずくまる佐々木の上に覆いかぶさった。佐々木は動くことさえできない。

 唾液の糸を引いて大きな唇が開き、墓石のように並ぶ歯がむき出しになった。

「あなた、中々美味しそうね。あなたから頂こうかしら。糸で巻いてから、ゆっくりと体液を吸い尽くしてあげるわ」

 言葉とともに、バラの香りと腐臭の混じった甘ったるい口臭があたりに漂った。

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