第55話 変容した者たち
見かけによらず、蛞蝓人間の動きは素早かった。
その頭部はまっすぐ俺に向かって伸びてきた。だが、避けようとして俺は粘液で足を滑らせて転んでしまった。その上からのしかかるようにしてナメクジの怪物が迫る。
俺は手にした棍棒を下から思いっきり突き上げた。先端部が怪物の柔らかい肉にめり込んだ。
次の瞬間、棍棒の先端部が火花を放って炸裂した。この武器に込められた爆破魔術が発動したのだ。ナメクジ人間の肉が弾け、褐色の体液が飛び散った。俺は怪物の体液を浴びてずぶ濡れになった。
怒り狂った怪物は巨体で俺を押し潰そうとした。
その時、シャモスの真鍮のロッドが火を噴いた。雷火魔術の連射を真正面から食らい、怪物は蜂の巣になった。怪物は急速に体を縮こまらせて、トンネルの奥に退いた。
「大丈夫か、渡辺」佐々木が手を取って起こしてくれた。
「ああ、何とかな……」
俺は全身から茶色い体液を滴らせながら立ち上がった。体液を浴びた瞬間、少量が口に入ってしまった。俺は何度も唾を吐いたが、口内に残った苦味と生臭さはいつまでも消えなかった。
ナメクジ人間は頭部や手足を縮めて、ぶよぶよした丸い塊になっていた。防御姿勢だろうか。縮まっていてもまだ、その巨体はトンネルを塞がんばかりの巨大さだ。
ナメクジ人間は再び頭部と手足を伸ばした。
先ほど頭部に受けた棍棒と魔術の傷は跡形もなく消えていた。
「やっぱりな。この手のモンスターは大概、再生能力が高い。やるなら一撃で回復不能な大ダメージを与えなきゃな。下がってろ、二人とも」佐々木が俺とシャモスを押しのけて前に出た。
佐々木が呪文をつぶやくと、手のひらにまばゆく光り輝く火の玉が出現した。
佐々木はその火球を投げつけた。
火球は砲弾のように一直線にナメクジ人間へと飛び、ぶち抜いて大穴を開けた。そしてその後ろの岩盤に激突して大爆発を起こした。トンネル内を爆風が吹き抜けた。怪物は体の中心部をまるごと失い、周辺部だけが黒焦げのドーナツのように残った。その残骸がトンネルの床に崩れ落ちた。
「おいおい、いきなり『灼熱の火球』かよ。ここはいちおう都市の地下なんだぜ。ちょっとは加減しろよ」倉本が言った。
「俺の勘だと、あいつは長引くと厄介なタイプだった。こうやって一気にけりをつけるのが正解だ」佐々木が平然と言い返した。
「まったく無茶しやがる。それに……見ろ、お前が派手にやったせいで」
倉本が言った通りだった。
ナメクジ人間が出現するまで静まりかえっていた坑道は、いまや騒然としていた。今の騒ぎで地下の街中が侵入者に気づいたに違いない。前後左右あらゆる方向から様々な足音が押し寄せてくる。
「まあ、遅かれ早かれこうなるのは織り込み済みだったけどな」そう言って倉本はにやりと笑った。
「最近体がなまってたんで、いい運動になりそうだ」
さすが魔王と戦って生還してきた男たちだ。二人とも肝の据わり方が尋常じゃない。この程度は修羅場ですらないのだろう。
だが凡人以下に過ぎない俺は右往左往していた。シャモスも戦闘訓練を積んだ夜警隊員ではあったが、魔物の巣のような地下の街で全方向から敵が押し寄せてくる状況ではさすがに心穏やかでいられないようだった。額に汗の玉が浮かんでいる。
「き、来ました!」シャモスがうわずった声で言った。
次に姿を現した敵は一見、ローチマンに似ていなくもなかった。だが、捻じ曲がった背中、長く細い触角、そして、まるで竹馬にでも乗っているかのように異様に長い脚を持っていた。そいつはカマドウマ人間だった。その長大な脚から繰り出される蹴りの威力はかなりのものだろう。
カマドウマとは反対側の通路から姿を見せたのは、これまた手足の長い怪物だった。針金細工のように細い八本の手足の長さはカマドウマ人間以上だ。だがその胴体と頭部は直径50センチ程度に過ぎなかった。座頭虫人間。その尖った足先は鉄の槍のように鋭いに違いない。
第三の敵はいつの間にか真上の天井に張り付いていた。音も立てずに接近していたそいつは壁面全体をぼんやりと光らせる発光幼虫の青い光の中の黒い影だった。手足の吸盤で壁や天井を自在に素早く動くそいつはヤモリ人間だった。青い光を浴びて濡れ濡れと輝く大きな目玉を、そいつは自分の舌でべろりと舐めた。
「行くか、倉本」「おう、佐々木。派手に暴れてやろうぜ」
二人は雄叫びをあげると敵に向かっていった――――。
俺たちは地下の街の奥深くへと向かっていた。
怪物たちは次々に襲いかかってきた。だが、百戦錬磨の二人の敵ではなかった。彼らはまさに鬼神のような強さを発揮し、遭遇する敵を倒していった。俺とシャモスは自分の身を護ることに専念した。シャモスは間近で彼らの戦いを見て感銘を受けているようだった。
俺は少し複雑な気分だった。今は怪物の姿をしているとは言え、彼らはもともと地下の街に住んでいた人間だ。つまり一時は俺の仲間だった人々だ。それに、かつてはこの俺自身がゴキブリ人間になっていたこともあったのだ。怪物となった彼らもたぶん、俺と同じように心と知能は人間のままに違いない。そんな彼らが次々に殺されていくのを見るのは、決して気分のいいものではなかった。
だけど、この事については倉本と事前によく話し合っていた。
昨晩、俺は倉本に覚悟のほどを問われた。ガエビリスを救出する過程で、昔の知り合い、友人たちが敵として立ちふさがった場合、相手を殺してでも彼女を助けたいのか。「ああ、構わない」俺はその時、はっきりと言ったのだ。だが、実際にそれを目の当たりにすると……。
済まない。許してくれ、みんな。俺は心の中で詫びた。
俺たちは今、一体の怪物の後を追っていた。
ゲジ人間。そいつは手負いだった。あえて殺さずに逃がしたのだ。ギレビアリウスが潜む場所へと逃げ帰らせるために。
そいつは逃げる途中で何十本もある自分の脚の一部を自切して、おとりとしてばら撒いていた。切り離された脚は勝手に動き回り、鋭い爪で俺たちを攻撃してきたが、シャモスが魔術の連射で片づけた。
ゲジ人間は迷うことなく地下深いレベルへと降りていった。
やがて、俺にも見覚えがある場所にたどりついた。
そこはガエビリスの部屋だった。
多くのケージが積み重ねられ、世界各地のダンジョンに住む怪物が飼われていた部屋。今、それらのケージや水槽は空っぽになっていた。満身創痍のゲジ人間は、体液を点々とこぼしながら、ケージの迷路の中を奥へと進んでいく。俺たちはその後を苦もなく追跡した。
俺はふと、何気なく頭上をふり仰いだ。
この部屋の天井はドーム型に高く盛り上がっている。部屋の床面付近は発光幼虫の青白い光で仄暗く照らされてているが、天井付近は濃い闇に閉ざされていた。その濃い闇の中、ドームの天頂に何やら気配を感じる。
俺は前を歩くシャモスの肩を叩いて知らせた
「上に何かいるような気がする」
シャモスも頭上を見上げ、目を凝らした。シャモスは後ろにいた佐々木に声をかけた。佐々木は空中に白く光る魔法の光を灯し、頭上の闇を照らそうとした。
ちょうどその時、前方を進む倉本の声が俺を呼んだ。
「おい、渡辺。……彼女を見つけた」
俺は走った。そして倉本の横に並んでそれを見た。
ガエビリスは大きなケージのひとつに閉じ込められていた。
無残な姿だった。服はぼろぼろに破れ、肌は無数の痣や傷跡で覆われていた。両手両足には重い鎖が付けられ、首にまで鎖が繋がれていた。彼女はケージの隅に膝を抱えて座り込んでいた。その瞳は虚ろで何も見ていなかった。排泄物の悪臭が鼻を突いた。
「なんて、ひどいことを……。今すぐ助けてやるからな」
俺の声は怒りのあまり歪んでいた。
俺は手にした棍棒を振り上げた。こんなケージ、今すぐぶち壊してやる。
「おい、待て渡辺!これは罠……」
倉本が制止しようとした瞬間、佐々木の魔法光が天井に巣食う暗闇を照らした。
その暗闇は白光に照らされても消えなかった。
それは闇ではなかった。
真っ黒い巨大な蜘蛛の怪物が、天井全体に脚を伸ばして張り付いていたのだ。その全長は10メートルは下るまい。
蜘蛛は天井から脚を放すと、俺たちめがけて落下してきた。




