第50話 戻った日常
朝、俺は歯を磨きながら鏡を見ていた。
しもぶくれの顔、野暮ったい一重まぶたの目、くしゃくしゃに乱れた髪、まばらに伸びた無精ひげ。我ながら、どこからどう見てもさえない顔だ。これが俺、渡辺裕紀の顔なのだった。
ここは集合住宅の共用の手洗い場だった。
地下の街から連れ戻された後、俺は親方が借りてくれた集合住宅の一室に住んでいた。もちろん家賃は給料から天引きだ。
部屋の質は前に住んでいた所とは雲泥の差だった。何より素晴らしいのは、裏通りに面した大きなガラス窓があることだ。そこから太陽の光や外気を取り込めるため、カビや湿気に悩まされることがなくなった。さらに窓には物干し台がついているので洗濯物を外に干せるのだ。これで生乾きの冷たい服に我慢して袖を通す必要もなくなった。
おまけにこの集合住宅には食堂まであり、そこで大家の奥さんが住民たちに朝夕の食事までごちそうしてくれるのだ。これで家賃はあの劣悪な前の部屋とほとんど変わらなかったから俺は大層驚いた。親方や同僚の作業員が言うのは、どうやら俺は以前の大家から無知に付け込まれ、相場よりかなり高めの家賃を吹っ掛けられていたようだった。
今朝の朝食は焼き立てのパン二つと温かい卵と野菜のスープ、それにプレピイという白身魚の塩焼きだった。俺はそれをきれいに平らげて仕事に向かった。
その日の仕事もスライム除去作業だった。
マンホールから地下15メートルを流れる下水道まで梯子を下りていくと、そこは大量のスライムで埋め尽くされていた。奇しくもそこは「勇者」秋山俊也の凱旋パレードの日に俺が清掃作業をしていた場所だった。
あれから一年近くが経った。
過去一年間、俺が仕事を離れている間を含め二度もこの場所でスライム除去作業が行われていた。下水管の勾配が緩やかだったりして下水の流れが滞りやすい場所や、食品工場や繁華街などから栄養分に富んだ排水が流れ込む場所ではスライムが特に発生しやすく、年に何度も定期的な除去作業が必要だった。
一年前のあの日、下水道の壁にこびりついたスライムを苦労して残さず取り除いた痕跡はどこにもなかった。まるで血管に溜まったコレステロールのように、スライムは薄赤い半透明の塊となって下水管の内壁全体に分厚くへばりついて下水の流れをせき止めかけていた。
俺はスコップで壁に密着したスライムを剥がしていった。
結局この作業も一時しのぎでしかないのだ。どうせすぐに新たなスライムの層ができてくるのだ。まるでギリシャ神話のシジフォスの岩のように、果てしない徒労の繰り返しに思えてくる。
けど、誰かがやらなければならないのだ。
そうしなければ下水が詰まり大勢の人々が困ることになる。一見空しく無意味な作業に思えるが、この都市の衛生的な生活を維持する上で欠かせない役割を果たしているのだ。そう自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせて作業を続けた。
スライムの残骸を詰め込んだ袋を運搬車の荷台に積み込み、ようやく作業が終了した。
「ようワタナベ、吸うか?」
作業員の一人、スコラビが煙草の箱を差し出してくれた。
「……いただきます」
俺はそこから一本抜き取って火をもらい、煙を深々と胸に吸い込んだ。美味い。
四人の作業員たちは道路際の縁石に座り込み、しばし無言のまま煙草の煙を立ちのぼらせた。
作業中のマンホールの周囲は黄色いペンキが塗られた立ち入り禁止用の木の柵で取り囲まれていて、その内側から俺たちはぼんやりと目の前の通りを眺めていた。足早に歩いていく通行人たちの目には、汚泥にまみれた俺たちの姿は映っていないようだった。
「さて、そろそろ帰るとするか」
スコラビの言葉に、俺たちは重い腰を上げて運搬車に乗り込んだ。運転台に座席の空きがなかったので俺は荷台に乗り込み、スライムの袋と一緒に揺られて運ばれていった。事務所に帰る途中、回収したスライムの袋は焼却炉で積み下ろした。スライムの残骸はそこで圧縮機にかけられて水分を絞られた後、燃やされて灰になるのだった。
俺は事務所を後にして帰宅の途についた。
夕暮れの街をたくさんの人々が歩いていく。
それは雑多な集団だった。俺のような作業着姿の下級労働者もいれば、黒服を着た行政府の下級官僚たちもいた。
向こうからやってきた原色のローブに身を包んだ魔道見習いの若者たちとすれ違う。彼らはにぎやかに騒ぎながら酒場に入っていった。それと入れ替わりに、胸当てや籠手などの防具をつけた粗野な感じの男たちが赤ら顔をして店から出てきた。たぶんこの街に来たばかりのフリーの冒険者だろう。それらをゆっくりかき分けるようにして、身なりのいい商人が乗った個人用の車が徐行しながら通り過ぎていく。
そして、群衆にまぎれて、俺の後方50メートルほどのところにそいつがいた。
俺は尾行されていた。
またか、と俺は思った。
仕事に復帰して以来、連日、俺は帰宅時に何者かに後をつけられていた。
思い当たる相手は夜警だ。
ローチマンとして夜警に捕獲された時、俺の身元は彼らに知られてしまった。その後ガエビリスのおかげで彼らの研究室の檻から脱走することができたが、彼らはまだ俺を諦めるつもりはないようだった。
だが、夜警はあくまで魔物駆除を専門とする組織であり、人間を逮捕する権限は持っていなかった。だから夜警たちは俺を監視し、俺がローチマンに変身した瞬間に捕獲するか、駆除するつもりなのだろう。
毎晩の尾行と監視はご苦労な事だが、あいにく俺はもうローチマンに変身することはない。いや、変身することができない普通の体に戻ったのだ。
俺は相手にばれないよう、こっそりと尾行者の様子をうかがった。トレードマークの黒いコートこそ身に着けていないがたぶん夜警で間違いないだろう。黒眼鏡をかけ、ねずみ色のベレー帽を頭に乗せたラフな服装の人物だ。背が低くたぶん身長160センチもないだろう。奇妙なことだが、何となくそいつにはどこかで会ったことがあるような気がした。
俺は混雑した大通りから折れて、人気のない裏通りに入り込んだ。
その時、俺の鼻は独特の臭気をとらえた。生臭いような、あのゴキブリ特有の臭いを。臭気は濃厚だった。俺は足元の路面を見たが、踏み潰されたゴキブリの死骸はひとつも無い。
俺は鼻をひくつかせて臭いの源を探った。
どうやら路地の奥から漂ってくるようだ。
背後を振り返り、夜警がまだ裏通りに入ってきていないことを確認すると、俺は身をかがめて暗い路地へと入っていった。積み重なった空き箱やゴミを避けて奥へと進んだ先に、予想通りそいつがいた。
「やっぱりローチマンか……」
そのローチマンは傷ついていた。黒い翅はぼろぼろに破れ、脚は二本失われている。中脚と後脚が一本ずつだ。触角は二本とも切れて短くなっている。右の複眼は潰れていた。おまけに全身の外骨格が至る所で破れて体液がにじみ出している。まさに満身創痍だった。たぶん夜警に攻撃されたのだろう。
かつて自分自身がローチマンだったこともあり、俺はそいつに深い憐れみを覚えた。気付いた時には俺は地面に横たわるそいつに手を触れていた。
「大丈夫か、お前」
その時だった。
「…よかった。ワタナベさんに……会えた…」
俺の手に触れた短い触角から、振動をともなってメッセージが伝わってきた。
「お、お前、……ひょっとしてリゲリータか?」
「…はい、そうです…」再び短い振動。
「いったいどうしたんだその姿」
「…助けて、ください……ワタナベさん。地下の街が……、姉さんが、大変なことに…」




