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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅱ部
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第46話 帰還

 この都市は二つの層から成り立っている。

 第一の層は大多数の一般市民が暮らす地上の街だ。石材や木材、レンガや漆喰、コンクリートなど様々な材料で作られた建物が立ち並び、様々な経済的、政治的、文化的活動が日々進行する喧騒に満ちた世界。ほぼすべての人が都市と聞いて思い浮かべるのは、この第一の層の事だ。


 第二の層はそれよりもっと静かで目立たず、地上で平穏な日常を送る大半の市民はその存在さえ知らない。

 それは市民たちの足元の下、地中に広がっていた。

 網の目のように地下に張り巡らされたトンネルには、何らかの理由で地上の街で行き場を失った者たちがひっそりと生活していた。地上の社会から隔絶したそこで、彼らは独自の共同体を営んでいた。地上の法律や政府の支配の及ばぬ無法地帯ではあったが、住人たちは相互不干渉を暗黙のルールとしつつ、ある一定の秩序を維持していた。そこには人間だけでなく地上で迫害されたコボルトやヴァンパイアなどの人外種族さえひそかに身を寄せていた。


 トンネルはかつて凝灰岩を採掘した坑道で、地下深く複数の階層にまたがって存在していた。その複雑な全容を把握している者は地下の住人たちの中にさえほとんどいない。

 だが、ごく一握りの人物は複雑怪奇なその迷宮のすべてを知り尽くしていた。

 そのうちの一人が、ダークエルフのガエビリスだった。



 彼女は地下深くの部屋にいた。

 彼女はこの坑道内にいくつも自分だけの秘密の部屋を持っていた。今いる最深部の部屋は特に静かで、彼女のお気に入りの場所だった。


 ここまで降りてくる人間は誰もいない。地下の住人たちのほとんどは、もっと地上に近いレベルで生活している。いくら太陽に背き、地上を捨てたとはいえ彼らは人間だ。無意識のレベルではやはり地上を離れられない生き物なのだ。しかし彼女はダークエルフ。闇の眷属であるダークエルフにとって、限りなく太陽から遠い地下深くこそがもっとも心安らげる場所だった。


 彼女は椅子に腰かけて書物のページをめくっていた。

 膝の上に広げたその書物は、分厚く、大きく、とても古かった。ページを埋め尽くす文字は小さくてかすれ気味で読みにくい。おまけにその文字は地上の都市で使われてる標準アルファベットではなかった。どこか漢字にも似た雰囲気のある、奇妙で複雑な形をした古代文字だ。


 この書物は、彼女がここに、地下の街にはじめて来た時に外から持ち込んだ物だった。



 あれはまだ彼女が幼い頃だった。

 彼女はこの地下の街に辿り着く以前、長く苦しい放浪生活を続けていた。

 人々の目を避けて、闇から闇へと逃げまわるつらい日々だった。彼女は第一級駆除対象種族、ダークエルフ。人間に見つかれば命は無い。人通りの多い街道は避け、魔物の出没する危険な荒野をさまよった。食べる物も着る物も満足になく、常に飢えと寒さに苛まれていた。

 もし幼い彼女一人だったら、あの過酷な日々をきっと生き延びられなかっただろう。


「さあ頑張れ、ガエビリス。もうすぐだ。もうすぐ僕たちの約束の場所だよ。そこに行けば幸せになれるんだ。だから泣かないで、お姫様」


 優しいあの人はいつもそう言って、彼女の涙をぬぐいながら励ましてくれた。


 彼女が今読んでいるこの分厚い古文書も、その人が旅の途中、肌身離さず運んでいたものだった。彼があの男を殺し、忌まわしい館から脱出する時に持ち出してきたのだ。なぜなら彼らダークエルフこそ、この書物の正当な所有者なのだから。彼女は膝の上の書物の表紙を愛おしげに撫でた。


 この書物こそが、彼らの精神を救い、生きる指針を示してくれたのだ。かけがえのない宝物だった。

 彼女は何度も繰り返しこの本を読んできたため、すっかり内容を暗記していたが、それでもまた読んでいた。読むと不思議に孤独が癒され、気力と勇気が湧いてくるからだ。



「…寂しそうだね、姉さん…」

 左手にくすぐったい感触をともなって、言葉が流れ込んできた。

 ローチマンの触角震動による意思伝達だった。

 そのローチマン、彼女の弟のリゲリータは気づかわしげな表情でガエビリスの顔を見つめていた。複眼とごちゃごちゃした口器からなる昆虫の頭部に表情を読み取れるとするならばだが。


 かつては姉と同じダークエルフだったが、全身の細胞が死滅する奇病に冒され、やむなく生命力の強いローチマン細胞に置換することで何とか命をつないだ少年。その肉体は100パーセント、ゴキブリ人間と化していたが、心は純粋な少年のまま保たれていた。


「大丈夫、寂しくなんかないわ」


「…嘘だ。僕にはちゃんとわかるよ。やっぱりワタナベさんのことだよね…」


「ち、違うわよ。……あの人にはね、心配してくれる仲間が地上にまだたくさんいたの。この街に来る資格がなかったのよ。私が勘違いしてただけなの。もう終わったことなの」


「…でも、また会いたいって顔に書いてあるよ…」


「うるさいわね、あんまりしつこいと怒るわよ」

 彼女がげんこつを振り上げる真似をすると、リゲリータは部屋の向こうに逃げていった。


 彼女は再び書物に視線を落とした。

 そこには「闇の使徒」すなわち人間が付けた俗称にして蔑称ではダークエルフと呼ばれている種族の、何万年にもおよぶ文明と歴史の物語が記されていた。はるか超古代文明の栄光の時代と、ダンジョンに隠れ潜み、人間に狩られるに至るまでの長い衰退の歴史。そして未来における栄光の時代の再来の予言……彼女は内容に没頭していった。



 しばらく経った頃。彼女の敏感な耳がかすかな物音をとらえた。

 誰も訪れる者のない地下の街の最深部の秘密の部屋、彼女たちダークエルフの兄弟だけしか知らない場所に向かって、何者かか近づいてくる足音だった。

 彼女は本から顔をあげ、通路の向こうから反響しながら伝わってくる遠い音に耳をそばだてた。だんだん大きくなってくるその懐かしい足音には聞き覚えがあった。彼女の胸に喜びが湧き上がった。


 そして、部屋の入り口にひとりの人物が顔を覗かせた。

「よぉ、元気にしてたか」その男は言った。

 ウェーブした長い黒髪、顎先に生えた黒い髭、線が細く神経質そうだが整った顔、青白い肌、そして、ガエビリスのものにそっくりの青緑に輝く大きな瞳。


「おかえりなさい!兄さん!」

 ガエビリスは膝から書物を降ろすと、弾かれたようにその男、兄のギレビアリウスに駆け寄った。

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