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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
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第45話 断章:勇者の夢④後編

 それは共生人体へと退化した北方大陸人たちだった。

 彼らは魔王のエネルギー源だけではなく、免疫細胞でもあったのだ。無数の共生人体たちは不完全な腕を伸ばして秋本の全身にしがみ付いてきた。このままでは秋本は彼らに同化され、死ぬこともできず共生体として魔王の体内の暗闇で永遠に生き続けることになるだろう。



<……我ノ勝チダ,勇者ヨ……>

 頭痛とともに、秋本の脳内に異質な思念が流れ込んできた。

 魔王の巨大な脳の近くにいるために、その邪悪な思念がテレパシーとして伝わってきたのか。


 魔王は嗤っていた。自らの勝利を確信していた。


<……卑小ナ人間デアリナガラ貴様ハヨク戦ッタ.驚クベキ事ダ……>

<……貴様ハ我ガ一部トナッテ生キ続ケルノダ……>

<……勇者ノチカラヲ吸収シ,我ハサラニ強大ナ存在トナルダロウ……>

<……モウ誰モ我ヲ止メラレヌ.我ノ望ム世界ガ到来スル……>


 秋本の脳裏に魔王の思い描くビジョンが流れ込んできた。人間の思考で理解可能なのはほんの一部に過ぎなかったが、その断片だけでも十分におぞましかった。捻じ曲げられた人体、発狂した人々、腐敗する海と汚物に覆われた大地、壊死した空。世界そのものに対する悪意……。頭の中に嘔吐物を注ぎ込まれるような最悪の体験だった。


 秋本の心に絶望が芽生えた。

 これまで苦しい戦いを続けてきたのに。もう少しで魔王を倒せたのに。

 自分が油断したばかりにすべてが台無しになってしまった。



 秋本の脳裏には過去の記憶が鮮やかによみがえっていた。無の剣セクタ・ナルガと出会い、聖教会から勇者としての運命を告げられてからの数々の試練が走馬灯のように浮かんでは消える。


 試練に旅立つあの日、聖教会の主教は彼に告げた。

「勇者にしか握れぬ剣セクタ・ナルガで魔物を倒しはしたが、君はまだまだ弱い。試練を通してさらに成長しなければならん。

 世界中を旅し、各地で猛威を振るう魔王群から人々を救うのだ。

 そして旅の途上で、何処かに眠っている残り三本の「神授の聖剣」と出会うであろう。四本の聖剣がそろう時、勇者の真の力が目覚めよう……」


 四本の神授の聖剣、すなわち無の剣セクタ・ナルガ、氷瀑の剣シュルスバリ、砂塵の剣アマーン、そしてもう一振りの剣。

 最も手になじんだ無の剣は日々の戦闘で活躍し、氷瀑の剣は最大の魔王群を倒し、砂塵の剣は魔王の庭園を消滅させた。いずれも神に授けられた剣にふさわしい神秘的な力を宿していた。

 しかし、残る一本はただの平凡な鋼の剣にしか見えなかった。先代の勇者、ソルディンの霊廟に眠っていたのでなければ見向きもしなかったであろう。戦いでも一度も使ったことがなかった。


 なぜ俺はこんな時につまらぬ剣の事など考えている。秋本は自答した。

 ……時が来たからだ。この剣が真に必要とされる時が。闇を払う浄化の光が。

 心の奥底のどこかから、そんな答えが浮かび上がってきた。

 だが今の俺は体の自由を奪われ、指一本動かすことができない。剣など握れない。

 ……恐れるな勇者よ、まだお前の心は自由だ。心で抜くのだ。

 心で剣を抜く。秋本はその剣を鞘から抜き放つところを思い浮かべた。

 ……そうだ、それでいい。


 うっすらと目を開くと、金色に輝く剣が浮かんでいた。

 魔王体内の闇の中で、その剣はまるで太陽のように燦然と光り輝いていた。まさに日輪の剣だ。

 秋本は心の中でその剣の柄を握った。

 剣の輝きが強まり、闇を吹き飛ばした。浄化の光は秋本の脚に食い込んでいた邪悪な神経線維を焼き払った。秋本は身体の自由を取り戻した。そして、今度こそ自分の本当の手でしっかりと剣を握った。


 剣から発した強烈な黄金の光が闇を切り裂いてほとばしった。

 光は秋本に取り付いていた共生人体たちを照らし出した。一瞬、魂を失ったはずの共生人体の顔に驚愕の表情が浮かび、そして彼らは安らかな表情で永遠の眠りへと旅立っていった。彼らはついに囚われの身から解放されたのだ。


 秋本は右手に黄金に燃える日輪の剣、左手に冷たく研ぎ澄まされた無の剣を握っていた。明暗の二剣は互いに呼応しあい、エネルギーを増幅しあっていた。


 秋本は魔王の脳をひたと見据えた。

<……オイ,ヤメロ.ヤメルンダ……>

 秋本は両手の剣を一閃した。灰白色の柔らかい臓器は一撃で消滅した。


 秋本は両手の剣をかざして魔王体内を縦横無尽に飛翔した。

 無の剣の漆黒と日輪の剣の金色が二重らせんの軌道を描きながら魔王内部のすべてを破壊し尽した。


 秋本は魔王の表皮を突き破り、邪悪なる者の体外へと無事生還した。

 その背後で、魔王の肉体はまさに崩壊しつつあった。それは色褪せ、縮退し、崩れ落ち、ついには粉々に砕け散って吹き抜けの底へと音もなく沈んでいった。後には何も残らなかった。


 秋本は床に降り立った。

 そこに倉本と佐々木が駆け寄り、その体に手をかけた。

「大丈夫か秋本!俺はてっきりお前が……」一気にまくし立てる佐々木を制して秋本がつぶやいた。

「紗英は?」

 横井紗英の姿はどこにもなかった。



 吹き抜けにはいくつもの通路が通じていた。その一つ一つを覗きこみ、秋本たちは必死に紗英を探した。

 そして秋本は一本の通路の奥にそれを見つけ出した。

 ざわざわと蠢く真っ赤な触手の塊。魔王の断片がまだ生き延びていたのだ。


 秋本は日輪の剣を抜き、魔王の断片へと歩み寄った。それは全身の傷から体液を流し、明らかに衰弱していた。秋本は日輪の剣の光で断片を消滅させようとした。

 その時、もつれ合った触手の奥に一瞬、紗英の姿が覗いた。

「紗英!」

 秋本は剣を納めると、両手で触手をかき分けて奥に埋もれた紗英を探した。触手はもろく軽く引っ張るだけで簡単にちぎれた。それは腐敗し始めていた。悪臭を放つ肉塊深くまで手を突っ込んだ秋本はついに紗英の腕を捕まえた。そして触手の中から紗英の体をずるりと外へと引きずり出した。



「大丈夫か!紗英!」

 紗英を抱き起した秋本は、だが次の瞬間、思わず目を背けた。

 紗英の下腹部が切り裂かれ、そこに一本の触手が深々と食い込んでいた。

 触手を引っ張ると、それは先端から白い粘液の糸を引きながら紗英の腹腔から抜け落ちた。

 急いで通路の床に放り投げ、魔術で焼き尽くした。


 だが、秋本に目を背けさせたのは紗英の表情だった。紗英は意識を失っていたが、その顔は奇妙なことに紅潮し、ひくひくと痙攣し、恍惚とした表情を浮かべていた。

 遅れて駆けつけてきた佐々木と倉本に見られぬよう、秋本は紗英の顔をマントで隠しながら治癒魔術で下腹部の傷口を塞いだ。



「紗英は無事だ。ちゃんと生きてる」秋本は言った。

「よかった……。済まない秋本、俺たちが付いていながら紗英ちゃんをこんな目に遭わせてしまって」

 倉本が頭を下げた。

「ああ、いや、いいんだ」

 しかし、秋本はどこか上の空だった。


「秋本、お前、ついにやったな、魔王を倒したんだ。すげーな」佐々木が言った。

「そうだな」

「どうした秋本?大丈夫か」さすがに倉本は秋本の様子がおかしいことに気付いた。

「いや、少し疲れただけだ。何も心配いらない」


 その時、横たわっていた紗英が意識を取り戻した。

「俊也……。ここは?魔王は?」そう言って周囲を見回した。

「安心しろ。もう倒した」秋本が言った。



 その時、魔王城のはるか下方から重々しい響きとともに震動が伝わってきた。魔王城の崩壊が始まったのだ。魔王の力で自然法則に逆らい成長してきた魔王城は、魔王なき今、もはやこの世界に存在することを許されなかった。

「急いで脱出したほうが良さそうだな」秋本は言った。



 こうして秋本たちの魔王征伐の旅は終わった。

 華々しい凱旋式や、王や各国の貴賓たちとの式典の最中も、秋本はある事を思い悩み続けていた。

 あの時、紗英は魔王に犯されていたのではないのか。

 過去において、歴代の魔王と交わった女は魔女と見なされて一人残らず処刑されてきた。自ら進んで身を委ねた女だけでなく、無理やり犯された女さえもだ。その点に関して聖教会は容赦がなかった。


 あの時、紗英が浮かべていた恍惚の表情はどう見ても……。

 いや、そんなはずはない。あってはならない。

 秋本はあの時の事を誰にも言わなかった。佐々木にも、倉本にも、紗英本人にさえ。

 誰にも知られてはならない。

 この都市に戻ってきてからも、紗英の様子には注意を払ってきたが、これまでの数か月、何の異常も見られなかった。やはり、あれは自分の思い過ごしだったのだろうか。最近では秋本もそう思い始めていた。



 しかし、秋本は知らなかった。

 その夜、秋本がまさに魔王との戦いの夢にうなされている頃に、紗英は目を覚ましてトイレに立った。

 そして、女性の肉体の周期にともなって血を流した。

 その時、経血と共に彼女の体外へ流れ出たものがあった。

 それは1ミリにも満たない小さな細胞だった。数か月間彼女の体内に寄生していたその細胞は、繊毛を使ってトイレの水の中へ泳ぎ出た。やがて彼女がレバーを押すと、数リットル分の水が血液とともに細胞をトイレから押し流した。

 そして、この都市の地下を走る、総延長約二万キロメートルにおよぶ下水道網へと流れ込んでいった。

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