第40話 邂逅②
――――六年前の10月。
俺がまだ、秋本たちと一緒に村で暮らしていた頃。
俺は村はずれの林で薪を拾っていた。村人たちは魔術で火を起こしていたが、火を燃やし続けるには燃料が必要だった。薪はそのまま燃やすのではなく魔術で木炭に変性させて使った。薪拾いは魔術の使えぬ俺にもできる数少ない仕事のひとつだった。
落ち葉が降り積もった林の地面に、俺は一羽の鳥を見つけた。
青緑に輝く羽に、赤いくちばしの美しい鳥だった。
鳥は俺が近づいてもその場にうずくまったまま逃げようとしなかった。よく見ると翼が折れ、脚にも怪我を負っていた。たぶん獣に襲われたのだろう。鳥は俺の接近に怯え、不自由な体を必死にばたつかせた。
このままだと、この鳥はそのうち死んでしまうだろう。だけど、それも自然の摂理。仕方のないことだ。俺は鳥に背を向けた。
だが、俺はどうしてもその傷ついた鳥を見捨てることができなかった。俺は両腕に暴れる鳥を抱きかかえて村へと戻った。
「横井さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
俺は横井さんに鳥の治療を頼んだ。その時、彼女はすでに治癒魔術をはじめとして何種類もの魔術を習得していたからだ。
「うわ、かわいそう……。ちゃんと治せるかどうか自信ないけど、出来るだけの事はやってみるね」
横井さんは快く引き受けてくれた。
彼女は折れた翼に軽く触れながら、かすかに唇だけ動かし声には出さずに呪文を唱えはじめた。さっきまでばたついていた鳥は急に大人しくなり横井さんにされるがままになっていた。
途中で部屋に入ってきた秋本と佐々木も一緒になり、固唾を飲んで横井さんの治療を見守った。そして十分ほどが経過した。不自然な形に折れ曲がっていた翼は元通りになり、足の傷も塞がった。
「……これで治った、かな」ほっと息をつきながら、横井さんが言った。
横井さんが手を離すと、鳥はきょろきょろと周囲を見回し、そして羽ばたいて空中に舞い上がり開いたままの窓から外へと一目散に飛び去った。
「何だよ、薄情なやつだなぁ」佐々木が言った。
「でも、よかったよ。元気になって」
俺は一抹の寂しさを覚えつつも鳥が無事回復した事を喜んだ。
「あの鳥、渡辺君が林で見つけてきたんだ。翼と足を怪我して動けなくなってたんだって」横井さんが秋本と佐々木に説明した。
「へぇ、渡辺、お前って意外と優しいところあるじゃん。もっと冷たい奴だと思ってたよ」佐々木が言った。
「な、なんか見捨てておけなくてな。それに治したのは横井さんだし、俺なんか何もしてないし……」俺は急に気恥ずかしくなって視線をそらした。
「そうやってすぐに自分を卑下するなよ、渡辺。そういう優しさはお前のいいところだと思うぜ」俺の肩をぐっとつかんで秋本が言った。そうあけすけに褒められると対応に困る。
「……ありがとう」
俺は真っ赤になってぼそぼそとつぶやいた。
「なに照れてるんだよ」そういって秋本が俺を小突いて笑った。横井さんも佐々木も、そして俺も一緒になって笑っていた――――。
そして、現在。
六年の前のあの時、一緒に笑った彼らの表情は嫌悪感に歪んでいた。
佐々木と倉本は俺を見て顔をしかめ、そして横井さんは小さな叫び声をあげて顔を背けた。その様子に俺は激しいショックを受けた。そして今の自分が彼らにとってどんな存在であるかを痛感した。
「その怪物、ローチマンですか。そんなのもここには住んでるんですね」
秋本だけは平静な表情と口調を崩さずに言った。
「ふふ……。このローチマンこそ、貴方たちがお探しのワタナベさんよ」ガエビリスが言った。
「…………」秋本は無言だった。
「おい、ふざけたこと言ってんじゃねーぞ」佐々木が言葉を荒げた。
「ふざけてなんていないわ。本当よ。彼はここで新しい姿に生まれ変わったの。そうでしょ、ワタナベさん。あなたからもお友達に言ってあげたら」
「……………………」
俺の触覚は動揺のあまり激しく震え、振動での意志の伝達などとてもできる状況ではなかった。だが、仮に言葉を話すことができたとしても何も言えなかっただろう。
俺は今までローチマン、すなわちゴキブリの怪物になったことをそれほど真剣にはとらえていなかった。地下の街という日常とかけ離れた世界で、人間ではない友人たちと生活を共にし、迷宮を探検したり怪物や夜警と戦ったり、これまでの人生では経験した事のない非現実的なイベントの連続に埋没する中で、俺は自分の肉体に起きた異常な状況を自然に受け入れて悩むこともなかった。
だが、かつての仲間たちと再会したことで、俺の中で眠っていた地上の正常な価値観が一気によみがえった。
俺は人間をやめてグロテスクな怪物に堕ちてしまったのだ。
高校の教科書に出てきた「山月記」の李徴どころの話ではない。虎ならまだいい。何故よりにもよってゴキブリなのだ。どうして俺は今までこんな惨めな姿に平然としていられたのだ。べとべとと油光する黒い身体、体節に覗く不潔なクリーム色の肉。手足にびっしり生えた棘と剛毛……。俺は自分の姿をはじめて客観的に見て絶望した。
俺は秋本たちの視線から逃れようと、ガエビリスの背後に縮こまった。
「……どうしたの、ワタナベさん。もう、恥ずかしがりやさんなんだから」
そうだ。このまま黙って、ただのローチマンのふりをしていよう。そうすれば俺だとばれる事はないはずだ。彼らに俺がゴキブリにまで堕ちたことを知られずに済むぞ。俺は一縷の希望にすがった。
だが次の瞬間、俺の希望は微塵に打ち砕かれた。
「……本当に、渡辺なんだな」
秋本が静かに言った。それは問いかけではなかった。
いったいどうやってか、秋本は俺の正体を見抜いていた。
一転して、秋本俊也の表情が険しくなった。
「……なぜこんな事をした」
「それはあなたたちには関係のないことよ。それに私たちが彼の意に反して変身させたわけでもない。彼自身の力でこの新たな姿に目覚めたのよ」ガエビリスは平然と言った。
「馬鹿な。おい渡辺!本当にそうなのか?」秋本が言った。
「…………」俺は無言でうつむいた。
「いったい何があったんだ。なんでそんな姿になっちまったんだよ」
「…………」無言。
「まただんまりか。何とか言えよ渡辺。そうやっていっつも黙って自分の殻の中に引きこもって……。それがすべての原因じゃないのか。お前がそこまで堕ちるに至った根本の原因はそこにあるんじゃないのか。その女の後ろにこそこそ隠れて、彼女に全部説明させるつもりかよ!」
いまや秋本ははっきりと怒っていた。
「この都市に来た時もそうだった。お前は何にも言わず俺たちの前から姿を消した。
なぜ自分の考えを言わない。人に相談しようとしない。俺たちはみんな同じ、この世界に飛ばされた仲間じゃないか。一緒に支え合って生きていくべき仲間だろ。
さあ、一緒に帰ろうぜ渡辺。地上で一からやり直すんだ。その姿を治療する方法もきっと見つかるだろう」
「…………」
同じ仲間、だと?
何も同じではない。
秋本、野村、佐々木、倉本、それに横井さん。彼らはみんなこの世界から祝福されていた。
はじめから何の苦労もなく魔術が使え、驚異的なスピードでどんどん強くなって冒険者や豪商、それに高位魔道士として頭角を現し、ついには王と聖教会から「勇者」の称号を授けられ、そして見事、魔王を倒してのけた。
だが、俺はどうだ。俺はどんなに苦労しても魔術が使えず、彼らと一緒にいても足手まといにしかならず、この都市にも順応できず、まともな職にもつけず、ついには事件を起こして罪に問われ、あげくに精神を改造されて、一時は自分自身さえ失った。俺は明らかにこの世界に来るべき人間ではなかったのだ。
だが、俺は今まで生き抜いてきた。とても他人には自慢できない糞ったれな人生だが、汚泥の中を這いまわり糞便まみれになりながらも自分の力だけで生き延びてきたのだ。
神に選ばれ、楽勝で力と栄光を手に入れたお前たちに何がわかるというのだ。わかってたまるか。
俺はあんたらとは違う。俺は別の道を行く。
今更のこのこ現れて、上から目線で説教するんじゃない。
俺はガエビリスを押しのけて前に出た。
「ワタナベさんっ!?」ガエビリスは驚いた。
「…いいんだ。どいてくれ…」
そうだ、このローチマンへの変身も、俺が底の底まで堕ちて死線をさまよって手に入れた力だ。恥じる事など何もない。今の俺には力がある。超人的なスピードと生命力。何の能力もなかったあの頃とは違う。
それをわからせてやる。




